2009年11月 3日 (火)

不来不去(または不出)-幅のある今

 還暦をすぎて小生の残りの時が少なくなっていることが気になってきました。誰に聞いても 小癪な孫娘より わたしの残りの時は短いのです。

しかし私もだてに白髪になって、おでこがつるつるになってきた訳ではありません。老獪さは小娘の屁理屈に負けません。なんとか「時」のハンディを克服しようとおもいました。いろいろ考えてようやく仏様の言葉におもい至ったのです。

 「六不」とか「八不」とか聞いたことがあるでしょうか?

「六不」は「般若心経」という有名なお経のなかにかかれている言葉で

       不生不滅・不垢不浄・不増不減 をいいます。                               「八不」とは 不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去(または不出)

といって 竜樹菩薩さまが「中論の帰敬偈」で説かれているお言葉です。

 私の言葉ではありません。仏様のお言葉ですから これは真実です。

このなかで 「不来不去」という言葉があります。この言葉はいったい何を意味しているのでしょうか? 爺は「その答え」のあるところ探しだしました。

ちょっとここで確認しておきます。

「般若心経」というお経は大乗佛教の根本教理である「空の思想」を説いているお経といわれています。

そしてその「空の思想」を体系化されたのが竜樹菩薩さまです。

ですから「八不」は「六不」の原型であると考えられます。

「中論の帰敬偈」は論理的、「般若心経」は呪術的・密教的なことからこの考え方は正論でしょう。(時代的にみて密教は後代になってからです)

それではひね爺の話を聴いてくださった貴方だけに秘密の場所をお教えしましょう。

「その答え」は「正法眼蔵」にかかれていたのです。この書は曹洞宗の開祖であられる道元禅師さまの著されたものです。

道元禅師さまは竜樹菩薩さまを仏祖とし、仏法を正伝された とかかれています。ですから道元禅師さまは「八不」も「六不」も正しく理解されているはずです。

「正法眼蔵」はかなり膨大な書です。はじめてこの書を読まれるかたにはどこに「不来不去」について書かれているのか探すのはたいへんでしょうから これもお教えしましょう。

「有時」とよばれる巻があります。「不来不去」ということば自体を解説したものではありませんが、「時」について鋭く、深く、丁寧に説かれています。

未来でもなく、過去でもなく、まさに「この今の有様」。 たとえば現象学でいわれる「過去把持しつつ未来予持する幅のある今」に相当する「いま有るこの時」の考察がなされているのです。 

「時は飛び去るとのみ心得べからず」

一般に「時」は過去ー現在ー未来へと経過するものだと考えられています。

しかし道元様はそれだけで「時」を観てはいけないと説かれています。

「いまの有ること」、「いまこの時」が「時」であり、「この時」は過去でもなく、未来でもない。もし過去であれば過ぎ去ったものであり、未来であれば 未だ到らないものになり、「いまのこの時」ではなくなるでしょう。

いま「この文」を読んでいる貴方は過去に居るのですか?一瞬に未来に移っているのでしょうか? 「こ」が過去で、「の」が現在で、「文」が未来になるのでしょうか? 否 貴方は「いまこの時」に「この文」を読んでいる のではないでしょうか?

この「いま」はこれから来るものでもなく、すでに去ったものでもない。

いまの「この時」が「いまこの時」になってゆくだけなのです。

生きている「いまのこの時」がいつのまにか 生きていない「いまこの時」に移ってゆくだけ   (参照  正法眼蔵 現成公案)

という「不生不滅」の詞の基に 「いまこの有る時」を示す「不来不去」という詞があるのだ と理解されるのです。

爺に甘える孫娘、孫をいつくしむ爺の今の今は 未来でもなく、過去でもない。「いまこの時」の有様だ とおもえば、少なくなってきた時のことなど 気をもむこともの無かろう と会得するのです。

貴方の「時」はどんな「時」ですか?

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2008年1月22日 (火)

老荘思想

 「美しい国 日本」を掲げた宰相のおかげで、現代の日本人が多少とも日本人らしさを意識するきっかけをもったかも知れない?

日本的あるいは日本人らしさを表現しようとするとき どんな「言の葉」が出てくるのだろうか?

茶「道」・華「道」・書「道」といった文化的なもの、弓「道」・剣「道」・武士「道」。

剣の極意は「無」念「無」想、禅のこころは「無」などといった言葉は、現代の日本人にも通用する。

いな、むしろ高尚なニュアンスを含み、好まれるほうの言葉になるであろう。

「道」をつけると、お茶、おはな、書あるいは剣術というよりは ナントナク 深み、重みがかんじられてくる。

「無心」とか「無の境地」とかいったことが連想されるようになってくる。

現代日本人は仏教用語の「縁起」とか「空」とかには うさん臭い顔をするのに、中国古代思想の「道」とか「無」には共感するのだ。

もともと「道(タオ)」も「無」も紀元前の中国、老荘の思想である。「無の思想」とも呼ばれ、言葉に信をおかないと云う非論理的な思想なのだ。それなのに理屈や分析で生活している現代人がどうしてそんなに「道」や「無」を好むのか?

アビダルマやプラサンガなど、仏教のほうがよほど論理的だと思われるのだが?

読売新聞2008年1月4日 日本の知力という特集で、「無我の境地」古来の知恵 と題した 養老孟司 氏の記事がある。ここで「無我」は 「無意識」あるいは「無心」といった意味で語られている。

たしかに大辞林をひもとけば「無心」でもよいのだが、

無我 (むが)は仏教用語。我に対する否定を表し、「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

であっても良いはずなのだ。

しょせん 日本人は 屁理屈のインドは嫌いで、「ナントナク」の中国がすきなだけなのかも知れない。

諸兄 どう思われます

2008/01/22 追補

孔子の「天」、老子の「無」、釈迦の「空」といった論評に出会った。

それぞれ表現は宇宙的イメージであり、現代科学にも通ずる言葉で、ナントナク納得?

しかしそれは次元のことなる言い方であろうとおもわれる。たしかに「無の思想」とか「空の思想」とかいわれるが、

老子は「道(タオ)」を説くために「無・一」というコトバを用いたのであり、

龍樹は「縁起」を説くために「空・中」というコトバを用いたのである。

「道」も「縁起」も「コトバ」ではあらわし難い世界であり、故に「仮名(ケミョウ)」とされるのである。

老子は「道」であり、釈迦は「縁起」でなければ はなし は遭わない。

次元の異なりに注意しなければなるまい。

「無・一」は「非観非想」をもちいて「無為自然」を示そうとする原始的、直感的表現体であり、

「空・中」は「不去不来」をもちいて「無常無我」をあきらめんとする経験的、論理的な表現体である。

「無・一」というコトバには「二・三・・・」という(指向性という)制限が付く。「二・無・一・三・・・」とはならない。それにくらべ、「空・中」というコトバにはこの制限がない。ゆえに

「仮名なるもの」をコトバで現そうとすると、

制限つきの「無・一」というコトバでは論理が飛躍せざるを得ないが、

「空・中」というコトバでは「プラサンガ」という「論法」が可能となるのである。

漸く此処まで来た。

「無の境地」も「空観」も到達できるところではないが、あるとこ位は見当つけたいものだ。

「平等」と「差別」、「差別」と「平等」の相異ぐらいつけられたか? 

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2007年12月27日 (木)

政教分離 【ロゴスと無空】

日本人は信仰心が失われている とか宗教心が無くなったなどと言われているがそれはほんとうだろうか?
東洋的価値を西洋的思考で表現できるものだろうか?はたして「政教分離」などという言葉は日本語になりえるのだろうか?
「哲学」とか「形而上学」といった言葉は百年ほど前に輸入されたものである。
西洋ではこの言葉を使って宗教と哲学を明確に区別する。
いっぽう東洋の伝統的宗教は「東洋哲学」とか「インド哲学」とか呼ばれ、宗教と哲学とが同一視される。
この理由は明快である。
西洋では人は神によって創造されたものである。神は奇跡を起こし、啓示によって人間を正義へと導く。ソクラテスは神霊(ダイモーン<ギリシャ語のδαιμον>)が自分にすべきではないことを指令するのだと語り、真の知を追求し魂の世話を図ることを薦めることは、神から与えられた自分の使命であって、国家の命令がこのことを禁じようとも自分にはやめることができないと語る。ソクラテスも神託を受けて 自らの智恵を確認したのだ。
すなわち西洋的信仰はまず奇跡を信じ、自身を神に委ねることから始まる。
自己の存在は神の御心であり、それは父母・祖先の存在にも優先する。

神が創造主であり、人は創造されたものである。人は神にはなれないのである。

                           
これに対し東洋では「梵・我」を同時に思惟する。「人生のいかなることか」を自ら問うのである。
おのれ自身を神・仏の位地(悟りの境地)に近づかせる行為をなすことこそが信仰とされるのである。
故に仏教には宗教と哲学とが混在しているのであり、このことを忘れて「政教分離」をすると、「知性としての東洋哲学」も同時に分離されてしまうことになる。
日本人の歴史と文化を振り返り、自身の生き様を探求しようとすればしぜんと仏教の世界に入らざるをえない。哲学のはなしがお経の話になってくると、政教分離のもとで教育をうけたおおくの日本人は、信仰の自由を侵されたごとくに不快あるいは不穏におちいるのである
「人は考える葦である」というとなにか西洋哲学の高尚な言葉のごとく思えても、「不生不滅」といった言葉には胡散臭い宗教的印象をうけるのだ。これは信仰とは区別されるべき東洋的知性が「政教分離」によって日常生活から引き離されてしまっている結果に他ならない。
おおくの日本人は仏教的葬儀や法事に多大な労力を惜しまないし、お正月もお盆もほとんど抵抗のない宗教行事になっている。このことは日本人の伝統的信仰心や宗教心がひろく共有されている証である。信仰心が失われているとか宗教心が無いとはおもわれない。
西洋がすべてではない。東洋の思考のなかに明日があるかもしれない。
「政教分離」などといった言葉はよくよく慎重に扱うものであろう。

                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(h200209追補)

聖 書 創世記1:1〜5

ヨハネによる福音書1:1〜5

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1:1)

ロゴス 1 [(ギリシヤ) logos]

大辞林 第二版より

(1)言葉。意味。論理。
(2)言葉を通して表された理性的活動。言語・思想・理論など。
(3)宇宙万物の変化流転する間に存在する調和・秩序の根本原理としての理法。
(4)キリスト教で、神の言葉。また、それが形をとって現れた三位一体の第二位格であるキリスト。ロゴス-キリスト。

ロゴスとは口語でのいわゆる「ことば」とだけ訳されるものではない。しかし

すくなくとも「ことば」も含まれることばと思われる。ゆえに「言」と訳されているのだろう。

西洋では「初めに言があった」のであるが、東洋では仏教でも老荘思想でも「真理はことばでは言い表しえぬ」とされている。

空とか無とかいったことばでしか伝えられないのである。

現代人にとって 「ロゴス」と「空・無」の相異など 日常では意識されない。しかし

ロゴスの世界ではロゴスが、空・無の世界では空・無が其々人の歴史のなかに摺りこまれる。それは無意識のなかで摺(す)りこまれてゆく。

結果、

真理に近づくほどに ロゴスの人は雄弁になり、空・無のひとは寡黙となる。

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2007年8月23日 (木)

Heart Sutra made in China ?

「般若心経」はJan Nattierによる文献的考察からだけでなく、内容そのものからもメイド・イン・チャイナ、すなわち「中国のお経=偽経」であろうと推察される。

般若心経を漢文として論理的に読解し 「是故に空は中なり。色無く受想行識無ければ、・・・」と読みさえすれば、空と無は明確に区別され、論理は整然とした三段論法となり、「空は不有不無であり 中である」 という中村 元 博士の説とも符合するようになるのである。

しかし仏教漢文の読み方に従えば、「是故空中無色・・・・」 は「これゆえ空のなかは無・・・・」と読まれる。この読み方では「空のなかは無」すなわち空と無は同じことになってくる。

前文で「五蘊皆空」、「色即是空」と言っておきながら、「是故空中無色・・・・、これゆえ空のなかは無色・・・・」などと言う まったく矛盾した言いかたは インドの論理的精神構造からは およそ考えられるものではない。空の体系を確立したといわれる龍樹は、異見に対して帰謬法さえ使う中観派の教祖なのである。

仏教が中国に渡った頃、すでに中国には「老荘思想」いわゆる「無の思想」が定着していたであろう。

「空の思想と老荘の思想」がきわめて近似していることは、「老子・荘子=森 三樹三郎」に詳述されている。

人が自然のなかで平穏に生きるためには、差別があってはならない。そのために対立を拒絶し、無にならねばならないという「無の思想」は すべての対立概念を否定する。

非左非右・非高非低・非貴非賎・・・・。

これらは「空の思想」をあらわすとされる「六不」あるいは「八不」と同様に否定表現であり、この限り「無と空」は同一のものとなってくる。

よって六不をあらわす不生不滅不垢不浄不増不減は空相であるところの諸法を表すと同時に さらに「無の思想」をも現わすことになる。さすれば空は無と同義となり「是故に空の中は色無く受想行識無く・・・」と読み下すことになってこよう。

「無の思想」は「ことば」では言い表しえないとされている。故に感覚的・詩的となり、ときに非論理的になったとしても不思議ではない。

依って 「般若心経」が「仏教漢文の読み方」にしたがい「是故に空の中は色無く受想行識無く・・・」と読まれること自体、空に依拠しながらも、「直感の無の思想」を伝えるお経であり、「燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや」の世界からできてきたお経であることの論拠に成りえよう。

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2007年6月16日 (土)

恁麼 【心経と西洋哲学】

「恁麼物恁麼来(いんもぶついんもらい) 平成20年2月2日追補 

仏教が哲学であることは松岡正剛氏も千夜千冊で 述べておられる。

松岡正剛 千夜千冊 道元 「正法眼蔵」

第九百八十八夜【0988】04年6月9日 

道元にアランやハイデガーやベルグソンを凌駕する時間哲学があることを知ったのは、ある意味では道元にひそむ現代的な哲学性に入りやすくなったのではあったが、・・・・・。

さて、ここで正法眼蔵の各巻についての簡単な解説があるのだが、そのなかに

十 七「恁麼」。「いんも」と訓む。「そのような、そのように、どのように」というようなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁麼なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁麼あるなり」というふうに。

とのコメントがある。さらに

訳注 増谷文雄 正法眼蔵 「恁麼」の開題には

「恁麼」という言葉は、よく知られているように、禅門の人々が好んで口にし、筆にするところのものである。そのことばは、もと宋代の俗語にいずるところであって、・・・。俗語の意味としては「このような」とか、「このとおり」とか、そのとおり」とかいうことであり、それが形容詞にも、名詞にも、また疑問詞にも用いられているようである。だから、試みに「恁麼物恁麼来」なる句を、和文でも俗語風に訳してみるならば、「こげん物がどげんして来よったのじゃ」といった具合にもなろうというものである。

では、いったい、そんな俗語に託して、禅門の人々がいわんとするところは何であるか。

それは、はなはだ微妙であって、ずばりということは難しい。いま、道元がこの一巻をもって語ろうとしていることも、その微妙なる意味を、なにとぞして説かんとするのである。

とかかれている。この「恁麼」なることばはかなりのくせものである。

一つにいかで「恁麼」なるほどの粗野な言いようをするのかということ。

二つには 多様なそのもちいかたである。

恁麼の「それ・これ」は何を示すのか?

いくつかの恁麼の用例をみてみると「そげんこつ」はどうも

「無上菩提上(むじょうぼだいじょう)」の 諸々の在り様 いわゆる「陀羅尼・真言あるいは諸法」など をさし示していると見取される。なれば

禅門の恁麼人といえども 「そげんこつ」を問著せん! とするとき、

いささかなりとも「間接的な表現」を取らざるを得まい。「陀羅尼・真言あるいは諸法」などなどは あからさまに問著されるものではあるまい。

恁麼とは「縁起なるもの」の代名詞ではないか?

ひとのそこにあるは、父母のまさにそげんとき(正当恁麼時)そげんなこつ(恁麼事)をしたおかげである!

そのようなおもいにいたれば、恁麼の恁麼会なる をなんとか道取なるか。

なんとか 道得なり?

旧タイトル 心経と西洋哲学

放送大学の共通科目 「現代を生きる哲学」 を拝聴した。

「哲学」の講義を受けたのははるか遠い昔である。教養課程の一単位として哲学を選択したものの、その難解な言葉に恐れおののいたことだけ 記憶に残っている。

しかし今回の講義を「般若心経」と読み比べてみると、あまりにも類似していることに驚嘆する。

ヘラクレイトスの言葉といわれる「万物は流転する」は 仏教の根本思想である「無常=恒常であるものは無い」の肯定的表現であり、カントの超越論的または先験的理性とはアーラヤ識・マナ識といった唯識に通ずるものであろう。

「色即是空」とはフッサールにおける「主観・客観を融合した意識流、(色空本より不二なり=空海)」であり 、

「不垢不淨」はライプニッツのモナード論「予定調和」になろう。

「不増不減」はエネルギー保存の法則であり、

マッハにおける時間空間の関数的見解は八不の「不来不去」を思い起こさせる。

「諸法空相」はボームの「顕然秩序・内蔵秩序」そのもののようである。

なんて事だ!「心経」の266文字のうちに、コントの総てが包含されている。

しかしこれはあくまで「是故空中無色・・・・」 を

「これゆえ空のなかは無・・・・」と読む「漢文の読み方」ではなく、

「これゆえ空は中である。無・・・・」と読解した帰結である。

羯諦  羯諦  波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶

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2007年1月23日 (火)

一休和尚と不生不滅

一休和尚さまのうたに
「死にはせぬ どこえも行かぬ ここに居る たづねはするな ものは言わぬぞ」
とある。

「死にはせぬ どこえも行かぬ ここに居る」=「死滅して無になったわけでもないが」、
「たづねはするな ものは言わぬぞ」=「生きているわけでもない」。
生にあらず、死滅(=無)にあらず、不生不滅の「空=仏の居場所」が詠まれていると理解できる。

人は 生と死だけで自身の存在について語ることはできない。生・死を有らしめているもの までを意識せざるを得ない。
この 生・死を有らしめているもの は生でもなく、死でもない(不生不滅)こと は道理である。

 現代語では一般に「不生・不滅」を

「しょうぜず あるいは うまれず・めっせず」 と読み、

生成せず、消滅もしないこと と理解されるが、ここでは

「いきず・めっせず」と読み、

生きているのではないが・死滅し、無に帰したのでもない と解釈している。

この仏教的読解を道元禅師は次のように述べられている。

増谷文雄 全訳注 正法眼蔵 
現成公案の一節
〈原文〉
  たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
  しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。
  生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

〈現代語訳〉
[不生不滅ということ]
  薪は灰となる。だが、灰はもう一度もとに戻って薪とはなれぬ。それなのに、灰はのち、薪はさきと見るべきではなかろう。知るがよい、薪は薪として先があり後がある。前後はあるけれども、その前後は断ち切れている。灰もまた灰としてあり、後があり先がある。だが、かの薪は灰となったのち、もう一度薪とはならない。
  それと同じく、人は死せるのち、もう一度生きることはできぬ。だからして、生が死になるといわないのが、仏法のさだまれる習いであるこのゆえに不生という。死が生にならないとするのも、仏の説法のさだまれる説き方である。このゆえに不滅という。
  生は一時のありようであり、死もまた一時のありようである。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春となるとも思わず、春が夏となるともいわないのである。


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2006年7月24日 (月)

空海と道元

般若心経秘鍵と正法眼蔵の摩訶般若波羅蜜

真言宗でも曹洞宗でも般若心経は読誦されている。
両宗祖は般若心経を如何ように説かれておられるのか、
空海「般若心経秘鍵」 
頼富本宏 訳注 ちくま学芸文庫 空海コレクション2
道元「摩訶般若波羅蜜」
増谷文雄 訳注 講談社学術文庫 正法眼蔵(一)
を読んでみる。

<般若心経秘鍵は密教の視点から独自の解釈をほどこした書である> 
と書かれている。門外漢(拙者)に仏教諸宗派の違いなどわかるものではない。
しかしこの書はまさしく般若心経の解説書であった。難解で理解しがたい言葉も多い。しかし不明な箇所は自己(拙者自身)の無知にもとめられるものであって、解説そのものは丁寧に優しくなされていると感じられる。
いろいろな菩薩さまの本意もそこにあったのか と改めて気づかされる。
名訳の故もあろうが、その解説は清流のごとくながれ、多少の意味不明箇所など どうでもよいと思われてくる。
<正法眼蔵も至極難解な書である>と言われている。一文字一文字を丁寧に読み解いてゆかねばならない。しかし難解な言葉を一つでも理解できたとき、ああそうか! と思わず膝を打ってしまうのである。一気に問題が氷解するのである。
どちらも大師さまのお言葉である。衆生の者の解釈に
<手を拍ち、心を快くす>とはおもわれないが、素人なりの読解をしてみる。

玄奘法師漢訳「般若心経」 白文
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空 空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顚倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提娑婆訶
般若心経

摩訶般若波羅蜜多心経
<観自在菩薩、行深、般若波羅蜜多時、照見、五蘊皆空、度一切苦厄。>

正法眼蔵;
観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。
五蘊は、色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。

般若心経秘鍵;
第一人法総通分有五因行証入時是也  
第一の人法総通分に五有り。因・行・証・入・時、是れなり。
言観自在能行人即此人本覚菩提為困深般若能所観法即是行 
「観自在」といっぱ、能行の人、即ちこの人は、本覚を因とす。
   「深般若」は、能所観の法、即ち是れ行なり。
照空則能証智度苦則所得果果即入也
   「照空」は、即ち能証の智、「度苦」は、則ち所得の果、果は即ち入なり。
依彼教人知無量依智差別時亦多三生三劫六十百妄執差別是名時頌曰
かの教に依る人の智、無量なり。智の差別に依って、時また多し。
三生・三劫・六十・百妄執の差別、是れを時と名づく。頌に曰く、
観人修智慧深照五衆空 歴劫修念者離煩一心通
    観人智慧を修して深く五衆の空を照す 歴劫修念の者 煩を離れて一心に通ず

* 眼蔵では「渾身・般若」で説かれているだけだが、秘鍵ではより詳しい解説がなされている。ああそういうことかと納得する以外ない。

舎利子、
<色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識、亦復如是。>
正法眼蔵;
この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり。
色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり。

般若心経秘鍵;
第二分別諸乗分亦五建絶相二一是也 
第二の分別諸乗分に、また五つ有り。建・絶・相・二・一、是れなり。
初建者所謂建立如来三摩地門是色不異空至亦復如是是也 
初めに、建といっぱ、所謂、建立如来の三摩地門是れなり。
「色不異空」というより、「亦復如是」に至るまで、是れなり。
建立如来即普賢菩薩秘号    
建立如来といっぱ、即ち普賢菩薩の秘号なり。
普賢円因以円融三法為宗故以名之  
普賢の円因は、円融の三法を以て宗とす。故に以て之に名づく。
又是一切如来菩提心行願之身頌曰
また是れ、一切如来の菩提心行願の身なり。頌に曰く、
色空本不二事理元来同無碍融三種金水喩其宗
色空本より不二なり 事理元より来同なり無げに三種を融ず 
金水の喩その宗なり
 

* ここでは「空」と「色」との関係が説かれている。
眼蔵では<色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり。>で、空と色との区別が
示され、
秘鍵では<色空本より不二なり 事理元より来同なり 無げに三種を融ず金水の喩その宗なり>と「空」と「色」が其々単独で存在するものではなく、融合しているものであることが説かれている。
 
舎利子、
<是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。>
般若心経秘鍵;
二絶者所謂無戯論如来三摩地門是也是  
二に、絶といっぱ、所謂、無戯論如来の三摩地門是れなり。
諸法空相至不増不減是 
「是諸法空相」というより、「不増不滅」に至るまで是れなり。
言無戯論如来即文殊菩薩密号
無戯論如来といっぱ、即ち文殊菩薩の密号なり。
文殊利剣能揮八不絶彼妄執之心乎是故以名頌曰
文殊の利剣は、能く八不を揮ってかの妄執の心をを絶つこの故に以て名づく。
頌に曰く、
文殊是彼人独空畢竟理義用最幽真
八不に諸戯を絶つ文殊は是れかの人なり 独空畢竟の理義用最も幽真なり 
 
正法眼蔵(別項);
仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり。般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、
不生不滅なり、不垢不浄なり、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは、
仏薄伽梵の現成せるなり。

* 秘鍵では【八不絶諸戯】から龍樹の教えを説かれたであろうことは明白であろう。
眼蔵では六不であるが、【仏薄伽梵】は龍樹菩薩と考えてもよいだろう。
龍樹は空海にとっても、道元にとっても、仏祖である。 
さらに道元は「現成公案」のなかで【不生不滅】について説く。
  
たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
  しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。
  生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

「空」とは 文殊菩薩の教えであり、龍樹菩薩の教えであり、仏薄伽梵であり、
般若波羅蜜多であること が理解される。

<是故空中。無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
無眼界、乃至、無意識界、>
般若心経秘鍵;分別諸乗分(相乗)
三相者所謂摩訶梅多羅冒地薩怛三摩地門是也
三に、相とは、所謂、摩訶梅多羅冒地薩怛ばの三摩地門、是れなり。
是故空中無色至無意識界是也
「是故空中無色」というより、「無意識界」に至るまで是れなり。
大慈三昧以与楽為宗示因果為誡
大慈三昧は、与楽を以て宗とし、因果を示して誡とす。
相性別論唯識遮境心只在此乎頌曰
相性、別論し、唯識、境を遮す。心、只だ此れに在り。頌に曰く
二我何時断三祇証法身阿陀是識性幻影即名賓 
二我何れの時にか断つ三祇に法身を証す 
阿陀は是れ識性なり幻影は即ち名賓なり

正法眼蔵;
般若波羅蜜多十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、
眼耳鼻舌身意、色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。

* 秘鍵、眼蔵ともに【一切法】であるところの 十二処・十八界の教えが
説かれている。

<無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦集滅道>、
般若心経秘鍵;分別諸乗分(二乗)
四二者唯蘊無我抜業因種是也是即二乗三摩地門也   
四に、二といっぱ、唯蘊無我、抜業因種、是れなり。是れ即ち二乗の三摩地門なり。
無無明至無老死尽即是因縁仏之三昧頌曰 
「無無明」というより、「無老死尽」に至るまで、即ち是れ因縁仏の三昧なり。
頌に曰く、
風葉知因縁輪廻覚幾年露花除種子羊鹿号相連  
風葉に因縁を知る輪廻 幾の年にか覚る露花に種子を除く羊鹿の号相連れり
無苦集滅道此是一句五字即依声得道之三昧頌曰
「無苦集滅道」、此れこの一句五字は、即ち依声得道の三昧なり。頌に曰く、
白骨我何在 青人本無 吾師是四念羅漢亦何虞 
白骨に我何んか在る青おに人本より無し吾が師は是れ四念なり
羅漢また何ぞ虞まん。

正法眼蔵;
また四枚の般若あり、苦集滅道なり。

* ここで眼蔵【摩訶般若波羅蜜】では十二因縁についての記述はないが、
【弁道話】のなかでは否定的に記されている。

この知見によりて、空華まちまちなり、あるいは十二輪転・二十五有の境界とおもひ、三乗五条・有仏無仏の見、つくることなし。この知見をならうて、仏法修行の正道とおもふべからず。

<無智亦無得。以無所得。故、>
般若心経秘鍵;分別諸乗分(一乗)
五一者阿哩也路枳帝冒地薩怛之三摩地門也
    五に、一とは、阿哩也ば路枳帝冒地薩怛ばの三摩地門なり。
無智至無所得故是也 
「無智」というより、「無所得故」に至るまで、是れなり。
此得自性清浄如来以一道清浄妙蓮不染開示衆生抜其苦厄 
この得自性清浄如来は、一道清浄妙蓮不染を以て、衆生に開示して、
その苦厄を抜く。
智挙能達 得名所証既泯理智強以一名
智は、能達を挙げ、得は、所証に名づく。既に理智を泯ずれば、
強ちに一の名を以てす。
法華涅槃等摂末帰本教唯含此十字 
『法華』『涅槃』等の摂末帰本の教、唯だこの十字に含めり。
諸乗差別智者察之頌曰 
諸乗の差別、智者、之を察せよ。頌に曰く、
観蓮知自浄見菓覚心徳一道泯能所三車即帰黙 
蓮を観じて自浄を知り菓を見て心徳を覚る一道に能所を泯ずれば三車即ち帰黙す 

正法眼蔵;
また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり。

* 【智・得】は【六波羅蜜】であると理解される。

門外漢(拙者)にとって、現代語の「般若心経」を読んでもっとも不可解であった
是故空中無色、無受想行識、・・・。(この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、・・・。)
の「無」は「無視」されている。
【眼耳鼻舌身意、色声香味触法。眼界、乃至、意識界】、は
【十二枚の般若波羅蜜多(十二処)であり、また十八枚の般若(十八界)】であり、
【智は、能達を挙げ、得は、所証に名づく】となっている。
「是故空中無色、無受想行識、・・・」、「無智亦無得」に於ける「無」の解釈は示されていない。 
正法眼蔵では「摩訶般若波羅蜜の別項」において【無】が説かれている。しかしこれはたんなる「有無」の「無」ではない。

この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり、いはゆる戒定慧乃至度有情類等なり。これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

真言、曹洞のニ宗祖の「般若心経」をここまでみてきた。
表現は異なるが、説こうとされていることには、大きな違いは見出せず、
極めて似ているようにおもわれる。
以下は般若心経秘鍵での、行人得益分、総帰持明分、秘蔵真言分となる。
いまの門外漢には立ち入りがたい。

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2005年12月 6日 (火)

般若心経の論理的読解

摩訶般若波羅蜜多心経(マカハラミッタシンギョウ)                                     
大いなる完成されたる智慧の教え

観自在菩薩  行深  般若波羅蜜多時 
(カンジザイボサツ ギョウシン ハンニャハラミッタジ)
観自在菩薩さまが、完成されたるお智慧のなかで深い行をされておられたとき

照見  五蘊皆空 度一切苦厄 
(ショウケン ゴウンカイクウ ドイッサイクヤク)
五蘊を皆 空と照らし合わされ、一切の苦厄を見極められた 

舎利子 
(シャリシ)
そして 舎利子に仰せられた

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 
(シキブイクウ クウブイシキ シキソクゼクウ クウソクゼシキ ジュソウギョウシキ ヤクブニョウゼ)
色は空と異ならず、空も色と異なるものではない 色即ち空であり、空在って色在り,
受 想 行 識も また 色 の如くである と

舎利子 
(シャリシ)
ふたたび 舎利子に仰せられた

是 諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
(ゼ ショホウクウソウ フショウフメツ フクフジョウ フゾウフメツ ゼコクウチュウ)
これ 諸法は空の相であり、生ぜず滅せず、垢からず浄からず、増えもせず減りもしない

是故空中
これゆえ 空は (生滅、垢浄、増減 其の他諸々の) まん中 である 

無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
(ムシキムジュソウギョウシキ ムゲンニビゼツシンイ ムシキコウミソクホウ) 
色が無く、受、想、行、識が無いことは 眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、色、声、香、味、触、法も無いことであり、

無眼界 乃至 無意識界 
(ムゲンカイ ナイシ ムイシキカイ)
眼の無い世界 あるいは 意識の無い世界では

無無明亦無無明尽 乃至 無老死亦無老死尽 
(ムムミョウヤクムムミョウジン ナイシ ムロウシヤクムロウシジン)
明かりが無い事さえも無く、無いままで、あるいは老死も無く、また無いままで尽きはて、(

無苦集滅道 無智亦無得 
(ムクシュウメツドウ ムチヤクムトク)
仏の教えである四諦も無となり、智慧を知ること、また悟を得ることも無いこと となる

以無所得 
(イムショドク)
以って 無とは どんな所であるか 知り得るであろう 

故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多 
(コ ボダイサツタ エハンニャハラミタ)
故に 菩提薩埵様たちは 般若波羅蜜多(完成されたるお智慧)に たよられ、

故 心無罣礙 
(コ シンムケイゲ)
それ故に 心に妨げになるものが無くなり

無罣礙 故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 
(ムケイゲ コ ムウクフ オンリイッサイテンドウムソウ クギョウネハン)
妨げになるものが無いが 故に、恐怖があることも無く、一切の顛倒した夢想から遠く離れて、しずかな涅槃の境地に辿られたのである

三世諸仏 依 般若波羅蜜多 故 得 阿耨多羅三藐三菩提 
(サンゼショブツ エ ハンニャハラミタ コ トク アノクタラサンミャクサンボダイ)
三世諸仏様たちも 般若波羅蜜多(完成されたるお智慧)に たよられた。それ故に 無上等正覚(仏陀と同等の悟り)を得られたのである

故 知 般若波羅蜜多 
(コ チ ハンニャハラミタ)
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 
(ゼダイジンシュ ゼダイミョウシュ ゼムジョウシュ ゼムトウドウシュ ノウジョイッサイク シンジツフコ)
ゆえに  般若波羅蜜多(完成されたるお智慧) は大いなる、明らかにして無上の 比類なき祈りのことばであり あらゆる苦を除く まことの教えだと 知られるのです

故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 
(コセツハンニャハラミタタシュ ソクセツシュワ)
ゆえに 般若波羅蜜多(完成されたるお智慧) を称えて祈るのです。それでは祈りましょう

羯諦  羯諦  波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 
(ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ)

般若心経 (ハンニャシンギョウ)

*追補改定しました。(H.18.6.23)

観自在菩薩
 観自在菩薩様が (観世音菩薩とも称される)  
行深   時
深い行をされておられる  とき

般若波羅蜜多
般若波羅蜜多の
     波羅蜜多は梵語パーラミタの音訳です。般若は「智慧」と

            訳されています。
     多くの口語訳では「般若波羅蜜多」を「智慧の完成」と

            訳しています。
     『悟られた仏陀の完全なる智慧』に到達し、己の智慧を完成させる
     ためには、菩薩様といえども修行をなされる 智慧 なのです。
 「般若波羅蜜多」は衆生の智慧とは比較できない智慧として、敬礼され
音訳のまま伝えられた。と云われています。故に
「智慧の完成」に深い、浅い は無いはずです。
「深い般若波羅蜜多」と言う読み方は「頭が頭痛します」。
「行深」は人のする行ではなく、観自在菩薩様のする行として、
「より深い行をする=行深ス」と訓点しました。
             [菩薩は人間とは違う]  紀野一義 「般若心経」を読む*

照見    を  と照らし合わせて見られた
五蘊皆   五蘊すべてを
空     空と      (そして)
度     を量られた(見極められた)
一切苦厄  一切の苦厄を 
五蘊を皆 空と 照らし見合わせられ、一切の苦厄を見極められた

「照見」(しょうけん);このことばは広辞苑に載っていません。照らす
と 見る と言う二つの動詞からなっています。口語的には「隈なく見る」
と言った動作の意味ですが、仏教的には その動作の結果、何であるかが
「判明した、了解した、」と言った意味で読まれています。

    「度」も同様です。「スク」う と読んでいます。
一般には「ハカ」ることです。しかし計量の結果、苦厄であれば、仏は
これを「救う」ことになるのでしょう。

(著者は 仏教専門のこのような読み方を「結果論的読解」である と呼んでいます)

「五蘊」は仏教用語で、人間の存在を構成する五つの要素「色」および
「受・想・行・識」のことで 「色は かたちが在り色彩のあるもの 
受は感覚・想は認識・行は反応・識は記憶」とされています。  

「空」にはソラ・カラなど 言葉とし使われる場合と 思想として使われる

「クウ」があります。
思想として使われる「空」は「実体のないこと」と訳されています。
「空とは 実体のないこと」だと定義はされているのなら、もはや
「空についての問」は終わり、つぎは「実体のないこと」とはなにか 
が「問」となってしまいます。さらに
「空」が「実体のないこと」だとしても、空とはなにか が説かれている(空の思想が説かれているとされる経文の)途中で、すでに
「空の定義が完了」していることは矛盾とおもわれます。

ここでは仏教の思想としての「空」を理解したいために「心経」を読む
のです。いまは「空」はそのまま「空」とします

舎利子  シャーリプトラ よ 
(釈尊十大弟子なかのシャーリ佛の名です)
色不異空  空不異色  色即是空  空即是色
色は空と異ならず、空は色と異ならず、色即空なり、空即色是なり である
  「不異」は と異ならない
「即是」  即(そく)こうなる 
これは「スナワチ」と同じ意味でもあろう
受想行識 亦 復如是   
受想行識(前訳)もまた同様である
      よって次のように書き換えられます
      五蘊不異空  空不異五蘊  五蘊即是空  空即是五蘊
             (韻をふまない かなり不細工な文になりましたが)
これを訳せば
  五蘊は空と異ならず、空も五蘊と異ならず、五蘊は空となり、空もまた五蘊と生り得る
    仏教の中核をなす「空」の思想と人間を構成する五蘊とは互いに通じ合う と云うこ    とになります。
五蘊と空との関係が示されています。

ここで漸く「五蘊は皆空なり」と理解されるようになります。(訂正h.18.7.5)

舎利子シャーリプトラよ 
なぜここで舎利子を二度も呼んだのでしょう?重要な事を伝えたいからだと考えられます
是諸法空相    
これ諸々のきまりごとは空の相であり
「空相」人の人相や手相と同じで「空」は「法」と呼ばれる目鼻立ちを
もつこと「空」の表出したもの(表象)が「諸法」である。そしてそれは
不生不滅  不垢不浄 不増不減  
   生ずることなく、滅もなく 汚れている訳でもきれいなことでも無く 
増えもせず 減ることも無い

この一節は 現代の宇宙観・自然観 と一致していて、理解し易い
ところです。
無限の時間・空間は終わりが無く、故に始まりもありません。生まれず、
滅せず、です。朽ち果てた廃物の泥中から芽が出て花が咲く生態系、
それは不垢不浄であり、エネルギーは不増不減の法則から成り立っています。

是故空中  
   これゆえに「空」は「中」である (真ん中・どちらにも捉われないものである)
   「空」の「特性」が述べられています。さて ここでは
「是故空中」を これゆえ 空は 中である と読みました。
「是」は指示代名詞で前文の「空相」としての「不生不滅  不垢不浄 不増不減」をさします。  
「故」は「是」が示す「特質」に依拠し、「不生不滅  不垢不浄 不増不減」が「中」という「特質」もっていること(理由・原因)を表す接続詞です。

しかし「仏教漢文の読み方」からすると
 「是故空中無色」これ ゆえ 空の中(なか)に 色は 無い となります。
そのように読むと「是」が指示代名詞として何をしめす不明になります。
「是」は「空相」としての「不生不滅  不垢不浄 不増不減」を示しますが、
「空の中」のことについては「前文には何の説明もされていない=理由・原因が不明」だからです。
「空とは 実体のないこと」だとすでに「定義はされている」
のだから、「空の中には五蘊は無い」と云っているのかもしれませんが。

  さらに「五蘊皆空」を 五蘊は 皆空なり と読むこととも 矛盾してきます。
「五蘊は 皆空なり」でしたら、「色も また空なり」となります。
「空の中に色が無いと言うこと」とは 口語語法では矛盾した言い方になります。

実体の無い(空の)なか中に 実体の無い(色)は 無い 
           無い なか中に 無い は無い ?

この矛盾を説明するためには論理をかなり飛躍させねばなりません。論理の
飛躍は、さらなる論理の飛躍を呼び起こします。
(梵語経典や仏教漢文の・正・統な・読・み・方なのでしょうが)

この「句読点の違い」が、この解説の最大のポイントです。

それでは「中」とはなんでしょう? 
前文の「不生不滅  不垢不浄 不増不減」は仏教では「六不」と呼ばれるものです。「八不」と呼ばれるものもあります。いずれも ものごとの判断をしようとするときに使う「対立概念」が「否定形」で示されています。
生滅が不生不滅、垢浄は不垢不浄、増減は不増不減です。演繹的にあらゆる対立概念に当てはめてみると、

有無・生死は不有不無・不生不死となり、
明暗⇒不明不暗、高低⇒不高不低、長短⇒不長不短、・・・陰陽⇒不陰不陽、
・・・左右は 不左不右⇒左でもなく、右でもない ことは「まん中」、

「是ゆえ空は中である」と理解できます。

対立概念が否定形で示されるものにどんなものが在るでしょう?

「明るくも無く暗くも無い、高くも無く低くも無い、長くも無く短かくも無い」 こんなものは 何でしょう。
「明暗、高低、長短」などこれらの概念が否定形で示されるときの意味は、
「丁度良い程度、バランスのとれた」といった意味になるでしょう。それでは

「プラス・マイナス」を否定形で示すと、
「プラスでもなく、マイナスでも無い」 ものには、ご存知の「ゼロ」があります。
「ゼロ」が在ることによって数字はプラスからマイナス」まで無限に続くようになります。
終わりがありません。終わりがないことは初めもないことです。滅せず 生ぜず、です。

「不増不減 増えもせず、減りもしない」 ものには「エネルギー」があります。
「エネルギー保存の法則」を知っている方にはすぐに解ることでしょう。

「成長」の対立概念は「減退」ですが、
景気が減退してくると、今期の経済は「マイナス成長」だった。
景気が上向くと、経済は「プラス」に転じた。などと「表現」されます。
経済の「減退」を「マイナス成長」と表現されることが許されるのなら、

対立概念としての
「有無」のうち、「有」は「プラス有」、「無」は「マイナス有」
「生死」のうち, 「生」は「プラス生」、「死」は「マイナス生」

と表現されてもよいことになります。「無と死」の文字がなくなります。
「マイナス生」は見ることも声を聞くこともない世界です。しかしここに、
「空の思想」を取り入れて見ます。

「空はちゅう中なり」で対立概念を否定形で示すものですから、「不プラス生不マイナス生」」すなわち「ゼロ生」となります。
「プラス生・ゼロ生・マイナス生」が創造されます。「空」があれば「生」はプラスからマイナスまで、数字と同じように、連続してきます。
「生きている世界」から「生きていない世界=不生の世界」までが連続されます。
生と死が断絶されたものでなく、
「死後の世界」も「生きていること」 との係わりをもつ世界である と捉えることが出来るようになります。「生きていたこと」が永遠の意味を保ち続ける「不滅の世界」となり得るのです。  

                    *(空はもともとインドの数学ではゼロを意味します)

「空は中なり」と読み解けば
「空」がもたらす「不生不滅」の世界が思惟されてきます。

「有・無」だけの世界では 三つの蜜柑のうち 二つ食べてしまうと残りは一つです。三つ食べてしまえば、残りは無しです。四つ五つと 食べることも、数えることも出来ません。
「無」だからです。
これが「無」と云う言葉の定義なのです。
もちろん「無」と言う思想(老子や荘子、道家の人々の思想)も有りますが、此処では思想としての「無」は使われていません

無色無受想行識  
「色」が無い「受想行識」が無いということは(=五蘊が無いことは)
無眼耳鼻舌身意 
 眼も無く耳も無く鼻も無く舌も無く身も無く意識も無いことで、          

無色声香味触法  
いろ・形無く声・香りも無く味も触れる事も 諸法も無いことです                                                              無眼界 乃至 無意識界
 眼(め)の無い世界 ないしは 意識の無い世界とは
無無明 明かり無しも 無し 
     明かりが無いことさえも無く(強調文です) 
亦 無無明 尽   
 明かり無しも無き に尽きる(そして其のままです)。
乃至  あるいは
無老死 亦 無老死 尽   
老も死も考えることさえないのです

ここで「無眼界」を「無耳界」または「無鼻界」に置き換えると「無無音 亦 無無音 尽」ないしは「無無嗅 亦 無無嗅 尽」と言い換えられます
(耳の無い世界ないしは鼻の無い世界では 無音さえも無く、ないままで、
あるいは 嗅ぐことが無いということさえもなく 無いままです)
 舌が無ければ辛も無く、肌が無ければ痛も無い。意識が無いなら諸法
も無いことです
  「無明」を仏教の専門用語と捉えて
     「眼の世界から意識の世界に至るまで無なら、無明から老死に至る十二因縁も無く、無いままである」とも訳せます。
十二因縁とは次に述べられる四諦と並ぶ仏教の大切な教理です。「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」です
どちらに解釈しても 意味はたいして変わりませんが、文章の流れから、強調文に訳したほうが リズムがあり、余韻が出ます。また 十二因縁を知らない読者にも理解しやすくなります。

            『心経』には因縁について一言も説いてはいないが、・・・
                               高神覚昇  「般若心経講義」

無苦集滅道  
仏陀の説かれた四諦の真理もなくなり
       四諦八正道=仏陀が始めに説かれたと言う仏教の根本教理
            苦諦・集諦・滅諦・道諦
     正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定  
無智亦無得  (悟りを) 知ることも 得ることも無くなるのです

  「無」であること について説かれています。そして
「無」と言う文字が執拗なほどに繰り返されています。
何故でしょうか。
   仏教がインドから中国に伝えられたものであれば、中国の文化もまたインドに伝えられていた筈です。インドで大乗仏教が興起し、般若心経が成立した頃には、中国では既に「老荘の思想=無の思想」が存在しています。
「老荘の思想」がインドに伝わったことは想像に難くありません。
「空の思想」の世界の中で「無の思想」はどう捉えられたのでしょうか。*

無と空は言葉としては、もともと同じような概念をもっています。
が、思想上で 
無我、無自性、非有非空といったことばを使用するとき、「空」と「無」の
区別を明確にすることは重要な問題です。

            *「無の思想」の世界で「空の思想」はどう捉えられたのかは、
                          森三樹三郎  「老子・荘子」に詳しい。

以無所得故       得る所なきを以っての故に

<通常この語は前の文章にかけて読むが、・・・。>
<この語は法隆寺梵本に従って、無い方が分り易い。・・・>
                            中村 元・紀野一義 訳注
                            「般若心経 金剛般若経」*

「以=接続詞、無=形容詞(補語)、所得=名詞(主語)、故=接続詞 」    
「以って」は、ここでは「無所得」にかかっていますが、通常まえの文章にかかる接続詞です。さらに
「無所得」を 所得 無し=得るものが無い と訳すと、「無智亦無得」の「無得」と同じになって、「得」と「所得」の区別がつきません。
それゆえ、 
「以って」は通常の前の文章にかかる接続詞としてつかい、
「無」を名詞(主語)、「所得す=(あるもの)を得る」を動詞(述語)
として読解すれば、

以無所得 (前文で無の説明がなされたこと)を
       以って 無 所得す = 無が 場所を得る
       = 無が(無自身のあり様を)得る。
以上で「無とはどんなことか」が分かりました。
故      ので、        
       と続けることができます。
 
般若心経では接続詞がたいへん巧妙に使用されています。
「以って・依って・故に など」
以後「故」が反復されて、リズミカルに言葉が流れます。

菩提薩埵 依 般若波羅蜜多
       菩提薩埵様は 般若波羅蜜多を依り所とされました
故      それ故に
心無罣礙  無罣礙 
 心に妨げが無くなり、妨げるものが無い
故      故に
無有恐怖   恐れがあることもなく
遠離一切顚倒夢想  
 あらゆるまちがった考えかたから 離れられて
究竟涅槃   静かな境地に居られるのです
       
心経はまず五蘊と空の関連を 次いで空の特性を述べ、更に 無の説明をしました。そのうえで、悟りは「般若波羅蜜多」に依って得ることが出来るものだ としているのです。
五蘊と空の関係を理解し、空の特性を知り、無とは何かを確認し、
そして
般若波羅蜜多に依って 悟りが得られる と云うことです。
文章は「起承転結」し、論理は明快な「三段論法」が用いられています。韻もふまれています。

仏教では独覚(師をもたず自らの智慧で悟られた方)の悟りも認めていますが、最高の悟りは般若波羅蜜多に依って得るものとされています。
 
三世諸仏 依 般若波羅蜜多 故得 阿耨多羅三藐三菩提 故知 般若波羅蜜多 
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 
       三世の諸仏さまも般若波羅蜜多に依って悟りの境地にたたれたのです
       故に 般若波羅蜜多は 大いなる、明らかにして無上の 比類なき祈りのことばであり、あらゆる苦を除く まことの教えだと判るのです。
           阿耨多羅三藐三菩提=仏陀と同じ悟り=無上等正覚

故説 般若波羅蜜多 呪   
故に 般若波羅蜜多を 称えて 祈ります    
即 説呪 曰 それでは お祈りの言葉 
羯諦  羯諦  波羅羯諦  波羅僧羯諦  菩提娑婆訶
往きて往きて 彼岸に往き 彼岸に完全に往きしもの 悟り いやさかなれ

(真言とよばれます)

筆者はたまたま曹洞宗の檀家に生まれました。信者たる自覚はありませんでしたが、
とりあえず曹洞宗の仏事に接してきました。
曹洞宗では「般若心経」を読誦します。また「修證義」がよく読まれます。 

  『修証義』(しゅしょうぎ)は、おもに道元禅師の著わされた『正法眼蔵』から、その文 言を抜き出して編集されたものです。

修證義 第一章 総序
生をあきらめ死をあきらむるは佛家一大事の因縁なり、
生死の中に佛あれば生死なし、
但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもく、涅槃として
欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究盡すべし。

「佛」は「空」と同義としてよいとおもいます。
「生死の 中 に 佛=空 あれば生死なし、」

この文章の『中』は どのように読み解いたらよいのでしょうか

「般若心経」の「仏教漢文の読み方」からすれば、 
是故空中無色無受想行識=これゆえ 空のなかに色は無く、受想行識も無い
(五蘊が無い)と云うことは、空のなかに 人の「生」は無いことであり、
「生[死] の なか に 佛=空 あれば」 とは言えなくなります。
「中」を生と死の【なか】と解釈すると、
「般若心経」と「修證義」とが相反することになります。

「是故空中=これゆえ 空は 【まんなか】(中(ちゅう))なり」と解釈し、
「生死の中=生死の 【まんなか】(中(ちゅう))に」とよめば、
「生と死のまんなかに 佛=空 あれば 生死なし」となって、
「生と死の間に 空=佛 の介在があること によって、
生と死(の苦悩)が無くなる」
と読み取ることが出来るようになります。

「是故 空中」 これゆえ 空は 中(ちゅう)【まんなか】なり とよみ、
「生死の中(ちゅう)に「空」があると解釈することで、
「般若心経」と「修證義」は相反しなくなります。

「般若心経」は、大乗仏教の根底をなす「空の思想」の心髄を説いている経典であるとされています。
「空の思想」は 龍樹(ナーガールジュナ)によって体系化され、大乗系仏教に
決定的影響を与えたと言われています。
したがって、
龍樹菩薩を知ることが「般若心経」を知ることに繋がります。

龍樹(ナーガールジュナ)の主著
「中論(頌)」はけっして「無」を説いているのではない。その理由の一つとして「中論(頌)」の本文である詩句の中において有と無との二つの極端(二辺)を排斥している、という事実を示しうる。
・・・ナーガールジュナおよび中観派にとっては、中(ちゅう)および中(ちゅう)道(どう)という観念がきわめて重要なものである・・・
「中論(頌)」においては、中(ちゅう)道(どう)とは「非有非無」の意味であるといってさしつかえないであろう。この非有非無の中道は空と同義である。
                      中村 元 著 「龍樹」 講談社学術文庫1548

「空の思想」を体系化されたといわれる 龍樹菩薩(ナーガールジュナ)
の解説書からは、「空は 非有 非無」であり、
「空中 有色」 空の中には 色有り、 とも
「空中 無色」 空の中には 色無し、 とも言えません。ただ
「是故 空中」 これゆえ 空は 中(ちゅう)なり と言うことは出来ます。

「是故 空中」(これゆえ 空は 中(ちゅう) なり)で句点を付ければ、
「般若心経」と「中論(頌)」は相反することはなくなります。

以上から 龍樹菩薩・・ 「中論(頌)」・・・二世紀
     玄奘法師・・・「般若心経」・・・  七世紀
     道元禅師・・・「正法眼蔵」・・・十三世紀 まで、
「空の思想」が相(そう)伝(でん)されてきたことが理解できます。

生死の中に空が在ることは、「般若波羅蜜多」の語源からも、真言(呪)
からも窺(うかが)い知れます。

般若 波羅蜜多パーラミター
パーラミ(彼岸に到れる)+ ター(状態)の智慧          紀野一義*

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 娑婆訶
<往きて往きて 彼岸に往き 彼岸に完全に往きしもの 悟り いやさかなれ>

次のことばも同様とおもわれます。

常に心に念じて、[何ものかを] アートマン(我)なりと執する見解を破り、
世間を空であると観察せよ。そうすれば死を度(わた)るであろう
                               スッタ・ニパータ1119(ブッダのことば)中村 元*
活(い)きながら黄泉に落(お)つ        (道元禅師遺偈) 秋月龍珉*

「空は、仏教における一種の謎で、いほば公開せる秘密であるといふことができる。何人(なんぴと)にもわかってゐるやうで、しかも誰にも本当営にわかってゐないのが空である。けだし、その空をば、いろいろの角度から、いろいろの立場から、いひあらはしてゐるのが、仏教といふをしへである」 
                                                                 高神覚昇 般若心経講義   

 諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影のやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。
                                                                 正法眼蔵 現成公案
仏の証(空観)は、仏といえども 明確に証し得ない、
「言葉だけでは説明出来ない」ことが述べられています。

「空中ハ、無色無受想行識」と言うことは、「空は無であること」、すなわち
「空は無と同義」となります。「空の思想」は「無の思想」と区別できません。
しかし「空」は「無」と同じではないことは、確かです。区別するためには、
「空中」からふたたび「無」を取り除かなくてはなりません。

「以 無所得 故 」      得る所なきを以っての故に
空中が無であるのであれば「得る所は無い」。しかし「空」は「無」ではなく、
般若波羅蜜多なのだから、・・・と解釈することも出来ます。

しかしこの解釈をしようとするなら、「是故空中無色無受想行識」の「是」は
「不生不滅、不垢不浄、不増不減」だけでなく、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」との両方を示す代名詞となり、
「空ノ中ニ色・受想行識ハ無ク」ではなく、
「空ノ中ニ色・受想行識ガ無クバ」と条件文にしなければ
「以 無所得 故 」と 繋がりません。

「空」とは、実体のないことであり、「言葉では言い表すことが出来ないもの」
であるから、
「・・・是故空中ハ、無色無受想行識ナリ・・・」とよむ「心経」こそ、
「空」そのものの解説であるのかもしれませんが・・・。

                         追記)  無断の転載・転写はおことわりします

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2005年10月10日 (月)

三界唯一心

「三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別」

三界ハ唯一心ナリ 心外ニ別法無シ 心ハ仏ヨリ衆生ニ及ブ 是レ三(界、あるいは心・仏・衆生)ニ差別無シ

これを

三界ハユイイツ 心ナリ ではなく、三界ハタダ 一心ナリ と読めば、

「不如三界、見於三界」 を

三界ノ三界ヲ見ル 如(ゴト)クニ アラズ ではなく、

三界ノ三界ヲ見ルニ 如(シカ) ズ と読み取れます。さすれば

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」 を 

「色」も「空」も 差別無し として

捉えることが出来るとおもいます。

三界ハユイイツ 心ナリ と理解すると、「色」も「空」も「心」に帰結されて、

「唯心論」 になってしまうでしょう・・・

*改定追補(平成18年6月23日)

「三界唯心」     ( 正法眼蔵(五) 全訳注 増谷文雄 講談社学術文庫 )

この一巻で道元が何を言わんとしているか?

訳注者は次のようにのべています。

   「この一句の表現は、如来一代の総力をあげてなれるものである。一代の総力をあげるということは、如来の力をこぞって余すところなきをいうのである」 ということは、 ここに仏智はことごとく結晶しているのであり、ここに仏教の世界観の根本基底があるとでもいうところであろう。
しかるに、「三界(さんかい)唯心(ゆいしん)」もしくは「三界唯一心」といえば、人はとにかく、ああ仏教は結局のところ唯心論なのだなあと、早合点しがちである。はやい話が、古来から仏教をもって唯心論だとしている人々は、けっして少なくないのであるが、それは、けっして「三界唯心」の真意をえたものでない。

この訳注にしたがって門外漢(拙者)は

「三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別」を、
「三界は唯一(ゆいいつ) 心(こころ)なり」 

〔さんがい-ゆいいっしん 【三界唯一心】大辞林 第二版より 〔仏〕 三界のすべての現象は心によってのみ存在し、また、心のつくり出したものであるということ。三界唯心。

ではなく、「三界は唯(ただ) 一心なり」 と読んでみました。

「心」は「こころ」ではなく、「中心の心(しん)」あるいは「核心の心(しん)」です。
「三界ハ唯(ただ)一心ナリ 心外ニ別法無シ 心ハ仏ヨリ衆生ニ及ブ 是レ三(界あるいは心・仏・衆生)ニ差別無シ」 と書き下します。
次いで 「心外ニ 別法 無シ」 を心経の「是 諸法 空相」と照らし見くらべれば、

「心」と「空」は同義となります。
空(くう)たる仏から衆生たる色(しき)まで「無差別」となり、

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」を
「空」も「色」も 差別無し 、と捉えられるのではないかと思います。 

さらに「三界」についての説明のなかで、
   「三界とはすべての世界のことである」 と説かれています。

「不如三界、見於三界」 これを
「三界ノ三界ヲ見ル 如(ごと)クニ アラズ」 と読み取ると、「三界以外の世界」が想定されてくることになりなす。しかし想定する そのもの が三界にいる もの であれば、
それは自ずと 「三界の内(うち)の想定」となってしまいます。
「三界ノ三界ヲ見ルニ 如(しか) ズ」 と読めば、この「想定」は無くなります。
  
「三界ハユイイツ 心ナリ」 と理解すると、「空」も「色」も「心(こころ)」に帰結されて、
「唯心論」 になり、
「三界ノ三界ヲ見ル 如(ごと)クニ アラズ」 と読みとくと、自己撞着になります。

このような読み方は 「無明の もの の読み方だ」 と言われれば、 門外漢(拙者)には反論は出来ません。
しかし、 無明は、
「単純に不知Nichtwissenの意であった」のではなく(勿論それはそのNichtwissen―Wissenの局面を有するが・・・・・)、一貫して存在(ザイン)であったのである。
                                      津田眞一  「アーラヤ的世界とその神」

「在(あ)る」と言うのであれば、無明ということも畢竟 三界のなかではなかろうかと思われます。

仏法が「唯心論ではない」ことは、ひとり道元(曹洞宗)の説くところではなく、
空海(真言宗)においても、言われるところです。

      ・・・しかし、ここで、身体性の原理を、はっきり肯定するのである。この身体を
            のぞいて、どこに、われわれの住む世界があろう。
      身体性の原理が肯定されることによって、同時に物質世界が肯定されるのである。
            密教はあの唯識仏教のように、単なる唯心論ではないのである。
      そうではなくてそれは、物質的原理を、精神的原理以上に強調している。
      身体は、すなわち、わが内なる物質なのである。
                      梅原 猛  空海の思想について 『即身成仏義』

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色即是空のこと

般若心経と鏡

「色即是空」 色すなわちこれ空なり 
 般若心経のなかのもっともよく知られている一節です。
 
 色は儚ハカナい、花のいのちは短くて、とか
 色事はむなしい、この世はまぼろし、とか よくききます。
 
 まじめな本の中にも「色には実体がない」と書かれています。
 ほんとうはどうなのでしょう?

 全文をみてみましょう、

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」、
 色は空と異ならず、空も色と異ならず 色即ち空なり、空すなわち色なり。

 「色」と「空」の関係が述べられています。
 たとえば、「あなた」と「鏡に映ったあなた」との関係に似ています。

 「鏡に映ったあなた」は「あなた」と異ならず
 「あなた」は「鏡に映ったあなた」と異ならず
 「鏡に映ったあなた」は「あなた」即ち「あなた」であり、
 「あなた」はすなわち「鏡に映ったあなた」なのです。
 
 あなたはガラス越しならわたしを見ることができますが、
 鏡の後ろにいるわたしを見ることはできません。鏡に映っているのは
 あなた自身でです。

 もちろん本物の「あなた」と「鏡に映ったあなた」はべつのものです。
「色」と「空」もべつのものなのです。

「色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり」と
 道元禅師は正法眼蔵のなかで述べられています。これは
「あなたは鏡に映っているが、あなたは(鏡の中のあなたではなく)あなた自身である」
 ということです。

「色即是空」の理解にもいろいろ有ろうとおもえますが、

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」の中の一節として
 理解されることが大切とおもいます。

・・・・・・・・・・・・

(h200209追補)

「あきらめる」ということばがある。

【▼諦める】 あきら・める

大辞林 第二版より

(動マ下一)[文]マ下二 あきら・む

望んでいたことの実現が不可能であることを認めて、

望みを捨てる。断念する。思い切る。

との意であるが、

たいかん [諦観]     【仏】    広辞苑 第二版

ていかん ―くわん 0 諦観】 大辞林 第二版より

(名)スル
(1)全体を見通して、事の本質を見きわめること。
「時代を―する」

(2)悟りあきらめること。超然とした態度をとること。

と ここでは「明らめる」意となる。

すなわち「諦める」には明らかになった結果思い切る。といった意が含まれている。

仏典では この結果論的語法がしばしば用いられる。たとえば

「般若心経」において、

「度」は 量ることである。「度量する」ことである。

河が浅ければ、また水量が少ないと計量されればその結果 河を渡ることができる。

よって、「ワタル」とも読む。

彼岸に「ワタル」ことが出来ればその結果 救われることになる。故に、

「スクウ」とも読まれる。

仏教では独特の語法が、諸所にみうけられる。

「不生不滅」は一般に、「生(しょう)ぜず、滅せず」と読まれる。しかし

「生(い)きず、滅せず」と読むことが仏法の習いであると 道元禅師は正法眼蔵で述べられている。

人は死せるのち、もう一度生きることはできぬ。だからして、生が死になるといわないのが、仏法のさだまれる習いであるこのゆえに不生という。死が生にならないとするのも、仏の説法のさだまれる説き方である。このゆえに不滅という

かくの如く口語的に読むことが可能な言葉でも、仏典の意味合いとは異なるということに気がつかなければならない。

「般若心経」を読み解こうとするときも、こうした仏典の特異性を考慮して読むことだ。

「般若心経」を ①読誦すること、②写経すること ③言語として理解することとは、区別されるべきことなのである。

「般若心経」を 読誦することをそのまま言語として理解しようとすると 仏法の習いを忘れた 意味不明の口語訳 となる。

「般若心経」は その「仏教漢文の読み方」に重層している「言語としての文字」を仏法の習いに添いながら 読み解くのである。さすれば

「心経」はまさに もっとも身近な「お経」だ と理解され得るはずである。

********

 「仮名」という融通無碍な発想こそ佛教ではなかろうか???  (h.20.4.28)

心経での「空」は「Emptiness」と英訳されている。しかし空の論理や中論頌の解説書をよむと、どうも「Emptiness」では理解しがたい。「Space」とすべきようにおもわれる。
むろん「空性」は「空間」というコトバだけで説明できるものではないが、
実体論であれ、認識論であれ、あるいは三次元あるいは四次元空間であれ、
「Space」としたほうが「空」を捉えやすくなる。

もともと「ことば」では言い表しがたい「般若波羅蜜多」なるものを、なにとぞして衆生に伝えんとする仮の名が「空」ということばである。
「空」はまた「中」ということばで言い換えられるが、これもまた仮名であり、
「zero、core、center、middle or moderate」 などのことばが、其々の状況で使い分けられよう。

心経において、「空」とは「実体(substance)のないこと」と解説され、
① 色即是空 空即是色:
   色 即ち物質的現象には実体がないのであり、実体のないからこそ、
   物質的現象で(あり得るので)ある 
② 諸法空相:
   すべての存在するものに実体がない
③ 空中無色:
   実体がないという立場においては、物質的現象もない

と現代語訳されている。しかしこの語法が矛盾であることは明白である。
まず①②において 
物質的現象、あるいは存在するものに「実体がない」という「本質=自性=実体」がある
と言う矛盾(空亦不空)。
次いで ①実体のないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある と言いながら、
     ③実体がないという立場においては、物質的現象もない 
    (物質的現象であることは、実体があるということか?)と言う矛盾が生じてくる。

この矛盾を解決するためには、
「空」に 「Space=空間」 という[仮の名」を付けてみる。さすれば
    ① 色即是空 空即是色、② 諸法空相、③ 空中無色 は、
    ① 物質的現象は これ空間にあり、空間はこれ 物質的現象によって認識され、
    ② すべての存在は空間にあり、③存在と存在の中間は無である と、
これで矛盾は解することができる。
しかしこれも仮の名であり「空の本体」ではない。空の本性そのものを理解するためには、より適切な「仮名」が必要である。

中論頌であれ、中観派であれ、「中」がいかに重要な言葉であるか、
「空の思想」or「大乗仏教」に多少の興味さえある者なら、誰でも判ることである。
般若経典あるいは空の思想において、「中or中道」は「空の本体」にせまるコトバ(=idea)
である ことは明らかであり、これこそ「空の仮名」と呼べるものである。
しかし不可思議なことに 「空の思想の真髄を説いている」 とされる「般若心経」にこの
「空の本体」にせまるコトバ(=idea)としての「中」は無く、ただ場所を示す名詞(=noun)
としての「中=(空の)なか」があるだけである。

空の中(なか)とか、真空〈一休禅師〉とかいったことばが、心経以外の般若経典にあるものなのかどうかは知らないが、とにかく、「仏教漢文の読み方」にしたがって、空のなかに、色無く、受想行識無く、・・・。

とよむと、空は無と同義、すなわち無は空の「必要十分条件」となる。しかし

空の理論を体系化したとされる龍樹〈中村 元〉からすれば、無は空の「必要条件」ではあっても、「十分条件」でないことは明らかである。さらに

空の理論上、もっとも重要な「中道」のことばが、この読み方からは出てこない。

空の真髄を説いているとされる般若心経に、空の理論を体系化したとされる龍樹菩薩の「中論のことば」が無いとはいかなることか?

八不の替わりに六不があればよいのだろうか?

中観派とよばれた人たちも、このように般若心経を読んでいたのであろうか?

このことによって「般若心経」は、論理の飛躍した呪文のごとき経典となっている。
「佛教漢文の読み方」は「空の思想の研究成果」を拒否しているのだ。

何故に「般若心経」は「中or中道」を半分だけ隠蔽しているのか?この謎を明解にした
記述を知らないが、紀野一義博士は「般若心経の立体重層てきな読み方」を示唆されている。
佛教は東洋哲学でもあるが、元来はやはり宗教である。
「般若心経それ自体が、コトバでは言い表し難い空の思想を具現しているのだ」 
と理解できないことは無い。しかしあまりにも不自然である。


いま少し解りやすい「般若心経」の現代語訳は出来ないものなのだろうか。


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