摩訶般若波羅蜜多心経(マカハラミッタシンギョウ)
大いなる完成されたる智慧の教え
観自在菩薩 行深 般若波羅蜜多時
(カンジザイボサツ ギョウシン ハンニャハラミッタジ)
観自在菩薩さまが、完成されたるお智慧のなかで深い行をされておられたとき
照見 五蘊皆空 度一切苦厄
(ショウケン ゴウンカイクウ ドイッサイクヤク)
五蘊を皆 空と照らし合わされ、一切の苦厄を見極められた
舎利子
(シャリシ)
そして 舎利子に仰せられた
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
(シキブイクウ クウブイシキ シキソクゼクウ クウソクゼシキ ジュソウギョウシキ ヤクブニョウゼ)
色は空と異ならず、空も色と異なるものではない 色即ち空であり、空在って色在り,
受 想 行 識も また 色 の如くである と
舎利子
(シャリシ)
ふたたび 舎利子に仰せられた
是 諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
(ゼ ショホウクウソウ フショウフメツ フクフジョウ フゾウフメツ ゼコクウチュウ)
これ 諸法は空の相であり、生ぜず滅せず、垢からず浄からず、増えもせず減りもしない
是故空中
これゆえ 空は (生滅、垢浄、増減 其の他諸々の) まん中 である
無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(ムシキムジュソウギョウシキ ムゲンニビゼツシンイ ムシキコウミソクホウ)
色が無く、受、想、行、識が無いことは 眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、色、声、香、味、触、法も無いことであり、
無眼界 乃至 無意識界
(ムゲンカイ ナイシ ムイシキカイ)
眼の無い世界 あるいは 意識の無い世界では
無無明亦無無明尽 乃至 無老死亦無老死尽
(ムムミョウヤクムムミョウジン ナイシ ムロウシヤクムロウシジン)
明かりが無い事さえも無く、無いままで、あるいは老死も無く、また無いままで尽きはて、(
無苦集滅道 無智亦無得
(ムクシュウメツドウ ムチヤクムトク)
仏の教えである四諦も無となり、智慧を知ること、また悟を得ることも無いこと となる
以無所得
(イムショドク)
以って 無とは どんな所であるか 知り得るであろう
故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多
(コ ボダイサツタ エハンニャハラミタ)
故に 菩提薩埵様たちは 般若波羅蜜多(完成されたるお智慧)に たよられ、
故 心無罣礙
(コ シンムケイゲ)
それ故に 心に妨げになるものが無くなり
無罣礙 故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃
(ムケイゲ コ ムウクフ オンリイッサイテンドウムソウ クギョウネハン)
妨げになるものが無いが 故に、恐怖があることも無く、一切の顛倒した夢想から遠く離れて、しずかな涅槃の境地に辿られたのである
三世諸仏 依 般若波羅蜜多 故 得 阿耨多羅三藐三菩提
(サンゼショブツ エ ハンニャハラミタ コ トク アノクタラサンミャクサンボダイ)
三世諸仏様たちも 般若波羅蜜多(完成されたるお智慧)に たよられた。それ故に 無上等正覚(仏陀と同等の悟り)を得られたのである
故 知 般若波羅蜜多
(コ チ ハンニャハラミタ)
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
(ゼダイジンシュ ゼダイミョウシュ ゼムジョウシュ ゼムトウドウシュ ノウジョイッサイク シンジツフコ)
ゆえに 般若波羅蜜多(完成されたるお智慧) は大いなる、明らかにして無上の 比類なき祈りのことばであり あらゆる苦を除く まことの教えだと 知られるのです
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
(コセツハンニャハラミタタシュ ソクセツシュワ)
ゆえに 般若波羅蜜多(完成されたるお智慧) を称えて祈るのです。それでは祈りましょう
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶
(ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ)
般若心経 (ハンニャシンギョウ)
*追補改定しました。(H.18.6.23)
観自在菩薩
観自在菩薩様が (観世音菩薩とも称される)
行深 時
深い行をされておられる とき
般若波羅蜜多
般若波羅蜜多の
波羅蜜多は梵語パーラミタの音訳です。般若は「智慧」と
訳されています。
多くの口語訳では「般若波羅蜜多」を「智慧の完成」と
訳しています。
『悟られた仏陀の完全なる智慧』に到達し、己の智慧を完成させる
ためには、菩薩様といえども修行をなされる 智慧 なのです。
「般若波羅蜜多」は衆生の智慧とは比較できない智慧として、敬礼され
音訳のまま伝えられた。と云われています。故に
「智慧の完成」に深い、浅い は無いはずです。
「深い般若波羅蜜多」と言う読み方は「頭が頭痛します」。
「行深」は人のする行ではなく、観自在菩薩様のする行として、
「より深い行をする=行深ス」と訓点しました。
[菩薩は人間とは違う] 紀野一義 「般若心経」を読む*
照見 を と照らし合わせて見られた
五蘊皆 五蘊すべてを
空 空と (そして)
度 を量られた(見極められた)
一切苦厄 一切の苦厄を
五蘊を皆 空と 照らし見合わせられ、一切の苦厄を見極められた
「照見」(しょうけん);このことばは広辞苑に載っていません。照らす
と 見る と言う二つの動詞からなっています。口語的には「隈なく見る」
と言った動作の意味ですが、仏教的には その動作の結果、何であるかが
「判明した、了解した、」と言った意味で読まれています。
「度」も同様です。「スク」う と読んでいます。
一般には「ハカ」ることです。しかし計量の結果、苦厄であれば、仏は
これを「救う」ことになるのでしょう。
(著者は 仏教専門のこのような読み方を「結果論的読解」である と呼んでいます)
「五蘊」は仏教用語で、人間の存在を構成する五つの要素「色」および
「受・想・行・識」のことで 「色は かたちが在り色彩のあるもの
受は感覚・想は認識・行は反応・識は記憶」とされています。
「空」にはソラ・カラなど 言葉とし使われる場合と 思想として使われる
「クウ」があります。
思想として使われる「空」は「実体のないこと」と訳されています。
「空とは 実体のないこと」だと定義はされているのなら、もはや
「空についての問」は終わり、つぎは「実体のないこと」とはなにか
が「問」となってしまいます。さらに
「空」が「実体のないこと」だとしても、空とはなにか が説かれている(空の思想が説かれているとされる経文の)途中で、すでに
「空の定義が完了」していることは矛盾とおもわれます。
ここでは仏教の思想としての「空」を理解したいために「心経」を読む
のです。いまは「空」はそのまま「空」とします
舎利子 シャーリプトラ よ
(釈尊十大弟子なかのシャーリ佛の名です)
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
色は空と異ならず、空は色と異ならず、色即空なり、空即色是なり である
「不異」は と異ならない
「即是」 即(そく)こうなる
これは「スナワチ」と同じ意味でもあろう
受想行識 亦 復如是
受想行識(前訳)もまた同様である
よって次のように書き換えられます
五蘊不異空 空不異五蘊 五蘊即是空 空即是五蘊
(韻をふまない かなり不細工な文になりましたが)
これを訳せば
五蘊は空と異ならず、空も五蘊と異ならず、五蘊は空となり、空もまた五蘊と生り得る
仏教の中核をなす「空」の思想と人間を構成する五蘊とは互いに通じ合う と云うこ とになります。
五蘊と空との関係が示されています。
ここで漸く「五蘊は皆空なり」と理解されるようになります。(訂正h.18.7.5)
舎利子シャーリプトラよ
なぜここで舎利子を二度も呼んだのでしょう?重要な事を伝えたいからだと考えられます
是諸法空相
これ諸々のきまりごとは空の相であり
「空相」人の人相や手相と同じで「空」は「法」と呼ばれる目鼻立ちを
もつこと「空」の表出したもの(表象)が「諸法」である。そしてそれは
不生不滅 不垢不浄 不増不減
生ずることなく、滅もなく 汚れている訳でもきれいなことでも無く
増えもせず 減ることも無い
この一節は 現代の宇宙観・自然観 と一致していて、理解し易い
ところです。
無限の時間・空間は終わりが無く、故に始まりもありません。生まれず、
滅せず、です。朽ち果てた廃物の泥中から芽が出て花が咲く生態系、
それは不垢不浄であり、エネルギーは不増不減の法則から成り立っています。
是故空中
これゆえに「空」は「中」である (真ん中・どちらにも捉われないものである)
「空」の「特性」が述べられています。さて ここでは
「是故空中」を これゆえ 空は 中である と読みました。
「是」は指示代名詞で前文の「空相」としての「不生不滅 不垢不浄 不増不減」をさします。
「故」は「是」が示す「特質」に依拠し、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」が「中」という「特質」もっていること(理由・原因)を表す接続詞です。
しかし「仏教漢文の読み方」からすると
「是故空中無色」これ ゆえ 空の中(なか)に 色は 無い となります。
そのように読むと「是」が指示代名詞として何をしめす不明になります。
「是」は「空相」としての「不生不滅 不垢不浄 不増不減」を示しますが、
「空の中」のことについては「前文には何の説明もされていない=理由・原因が不明」だからです。
「空とは 実体のないこと」だとすでに「定義はされている」
のだから、「空の中には五蘊は無い」と云っているのかもしれませんが。
さらに「五蘊皆空」を 五蘊は 皆空なり と読むこととも 矛盾してきます。
「五蘊は 皆空なり」でしたら、「色も また空なり」となります。
「空の中に色が無いと言うこと」とは 口語語法では矛盾した言い方になります。
実体の無い(空の)なか中に 実体の無い(色)は 無い
無い なか中に 無い は無い ?
この矛盾を説明するためには論理をかなり飛躍させねばなりません。論理の
飛躍は、さらなる論理の飛躍を呼び起こします。
(梵語経典や仏教漢文の・正・統な・読・み・方なのでしょうが)
この「句読点の違い」が、この解説の最大のポイントです。
それでは「中」とはなんでしょう?
前文の「不生不滅 不垢不浄 不増不減」は仏教では「六不」と呼ばれるものです。「八不」と呼ばれるものもあります。いずれも ものごとの判断をしようとするときに使う「対立概念」が「否定形」で示されています。
生滅が不生不滅、垢浄は不垢不浄、増減は不増不減です。演繹的にあらゆる対立概念に当てはめてみると、
有無・生死は不有不無・不生不死となり、
明暗⇒不明不暗、高低⇒不高不低、長短⇒不長不短、・・・陰陽⇒不陰不陽、
・・・左右は 不左不右⇒左でもなく、右でもない ことは「まん中」、
「是ゆえ空は中である」と理解できます。
対立概念が否定形で示されるものにどんなものが在るでしょう?
「明るくも無く暗くも無い、高くも無く低くも無い、長くも無く短かくも無い」 こんなものは 何でしょう。
「明暗、高低、長短」などこれらの概念が否定形で示されるときの意味は、
「丁度良い程度、バランスのとれた」といった意味になるでしょう。それでは
「プラス・マイナス」を否定形で示すと、
「プラスでもなく、マイナスでも無い」 ものには、ご存知の「ゼロ」があります。
「ゼロ」が在ることによって数字はプラスからマイナス」まで無限に続くようになります。
終わりがありません。終わりがないことは初めもないことです。滅せず 生ぜず、です。
「不増不減 増えもせず、減りもしない」 ものには「エネルギー」があります。
「エネルギー保存の法則」を知っている方にはすぐに解ることでしょう。
「成長」の対立概念は「減退」ですが、
景気が減退してくると、今期の経済は「マイナス成長」だった。
景気が上向くと、経済は「プラス」に転じた。などと「表現」されます。
経済の「減退」を「マイナス成長」と表現されることが許されるのなら、
対立概念としての
「有無」のうち、「有」は「プラス有」、「無」は「マイナス有」
「生死」のうち, 「生」は「プラス生」、「死」は「マイナス生」
と表現されてもよいことになります。「無と死」の文字がなくなります。
「マイナス生」は見ることも声を聞くこともない世界です。しかしここに、
「空の思想」を取り入れて見ます。
「空はちゅう中なり」で対立概念を否定形で示すものですから、「不プラス生不マイナス生」」すなわち「ゼロ生」となります。
「プラス生・ゼロ生・マイナス生」が創造されます。「空」があれば「生」はプラスからマイナスまで、数字と同じように、連続してきます。
「生きている世界」から「生きていない世界=不生の世界」までが連続されます。
生と死が断絶されたものでなく、
「死後の世界」も「生きていること」 との係わりをもつ世界である と捉えることが出来るようになります。「生きていたこと」が永遠の意味を保ち続ける「不滅の世界」となり得るのです。
*(空はもともとインドの数学ではゼロを意味します)
「空は中なり」と読み解けば
「空」がもたらす「不生不滅」の世界が思惟されてきます。
「有・無」だけの世界では 三つの蜜柑のうち 二つ食べてしまうと残りは一つです。三つ食べてしまえば、残りは無しです。四つ五つと 食べることも、数えることも出来ません。
「無」だからです。
これが「無」と云う言葉の定義なのです。
もちろん「無」と言う思想(老子や荘子、道家の人々の思想)も有りますが、此処では思想としての「無」は使われていません
無色無受想行識
「色」が無い「受想行識」が無いということは(=五蘊が無いことは)
無眼耳鼻舌身意
眼も無く耳も無く鼻も無く舌も無く身も無く意識も無いことで、
無色声香味触法
いろ・形無く声・香りも無く味も触れる事も 諸法も無いことです 無眼界 乃至 無意識界
眼(め)の無い世界 ないしは 意識の無い世界とは
無無明 明かり無しも 無し
明かりが無いことさえも無く(強調文です)
亦 無無明 尽
明かり無しも無き に尽きる(そして其のままです)。
乃至 あるいは
無老死 亦 無老死 尽
老も死も考えることさえないのです
ここで「無眼界」を「無耳界」または「無鼻界」に置き換えると「無無音 亦 無無音 尽」ないしは「無無嗅 亦 無無嗅 尽」と言い換えられます
(耳の無い世界ないしは鼻の無い世界では 無音さえも無く、ないままで、
あるいは 嗅ぐことが無いということさえもなく 無いままです)
舌が無ければ辛も無く、肌が無ければ痛も無い。意識が無いなら諸法
も無いことです
「無明」を仏教の専門用語と捉えて
「眼の世界から意識の世界に至るまで無なら、無明から老死に至る十二因縁も無く、無いままである」とも訳せます。
十二因縁とは次に述べられる四諦と並ぶ仏教の大切な教理です。「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」です
どちらに解釈しても 意味はたいして変わりませんが、文章の流れから、強調文に訳したほうが リズムがあり、余韻が出ます。また 十二因縁を知らない読者にも理解しやすくなります。
『心経』には因縁について一言も説いてはいないが、・・・
高神覚昇 「般若心経講義」
無苦集滅道
仏陀の説かれた四諦の真理もなくなり
四諦八正道=仏陀が始めに説かれたと言う仏教の根本教理
苦諦・集諦・滅諦・道諦
正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定
無智亦無得 (悟りを) 知ることも 得ることも無くなるのです
「無」であること について説かれています。そして
「無」と言う文字が執拗なほどに繰り返されています。
何故でしょうか。
仏教がインドから中国に伝えられたものであれば、中国の文化もまたインドに伝えられていた筈です。インドで大乗仏教が興起し、般若心経が成立した頃には、中国では既に「老荘の思想=無の思想」が存在しています。
「老荘の思想」がインドに伝わったことは想像に難くありません。
「空の思想」の世界の中で「無の思想」はどう捉えられたのでしょうか。*
無と空は言葉としては、もともと同じような概念をもっています。
が、思想上で
無我、無自性、非有非空といったことばを使用するとき、「空」と「無」の
区別を明確にすることは重要な問題です。
*「無の思想」の世界で「空の思想」はどう捉えられたのかは、
森三樹三郎 「老子・荘子」に詳しい。
以無所得故 得る所なきを以っての故に
<通常この語は前の文章にかけて読むが、・・・。>
<この語は法隆寺梵本に従って、無い方が分り易い。・・・>
中村 元・紀野一義 訳注
「般若心経 金剛般若経」*
「以=接続詞、無=形容詞(補語)、所得=名詞(主語)、故=接続詞 」
「以って」は、ここでは「無所得」にかかっていますが、通常まえの文章にかかる接続詞です。さらに
「無所得」を 所得 無し=得るものが無い と訳すと、「無智亦無得」の「無得」と同じになって、「得」と「所得」の区別がつきません。
それゆえ、
「以って」は通常の前の文章にかかる接続詞としてつかい、
「無」を名詞(主語)、「所得す=(あるもの)を得る」を動詞(述語)
として読解すれば、
以無所得 (前文で無の説明がなされたこと)を
以って 無 所得す = 無が 場所を得る
= 無が(無自身のあり様を)得る。
以上で「無とはどんなことか」が分かりました。
故 ので、
と続けることができます。
般若心経では接続詞がたいへん巧妙に使用されています。
「以って・依って・故に など」
以後「故」が反復されて、リズミカルに言葉が流れます。
菩提薩埵 依 般若波羅蜜多
菩提薩埵様は 般若波羅蜜多を依り所とされました
故 それ故に
心無罣礙 無罣礙
心に妨げが無くなり、妨げるものが無い
故 故に
無有恐怖 恐れがあることもなく
遠離一切顚倒夢想
あらゆるまちがった考えかたから 離れられて
究竟涅槃 静かな境地に居られるのです
心経はまず五蘊と空の関連を 次いで空の特性を述べ、更に 無の説明をしました。そのうえで、悟りは「般若波羅蜜多」に依って得ることが出来るものだ としているのです。
五蘊と空の関係を理解し、空の特性を知り、無とは何かを確認し、
そして
般若波羅蜜多に依って 悟りが得られる と云うことです。
文章は「起承転結」し、論理は明快な「三段論法」が用いられています。韻もふまれています。
仏教では独覚(師をもたず自らの智慧で悟られた方)の悟りも認めていますが、最高の悟りは般若波羅蜜多に依って得るものとされています。
三世諸仏 依 般若波羅蜜多 故得 阿耨多羅三藐三菩提 故知 般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
三世の諸仏さまも般若波羅蜜多に依って悟りの境地にたたれたのです
故に 般若波羅蜜多は 大いなる、明らかにして無上の 比類なき祈りのことばであり、あらゆる苦を除く まことの教えだと判るのです。
阿耨多羅三藐三菩提=仏陀と同じ悟り=無上等正覚
故説 般若波羅蜜多 呪
故に 般若波羅蜜多を 称えて 祈ります
即 説呪 曰 それでは お祈りの言葉
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶
往きて往きて 彼岸に往き 彼岸に完全に往きしもの 悟り いやさかなれ
(真言とよばれます)
筆者はたまたま曹洞宗の檀家に生まれました。信者たる自覚はありませんでしたが、
とりあえず曹洞宗の仏事に接してきました。
曹洞宗では「般若心経」を読誦します。また「修證義」がよく読まれます。
『修証義』(しゅしょうぎ)は、おもに道元禅師の著わされた『正法眼蔵』から、その文 言を抜き出して編集されたものです。
修證義 第一章 総序
生をあきらめ死をあきらむるは佛家一大事の因縁なり、
生死の中に佛あれば生死なし、
但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもく、涅槃として
欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究盡すべし。
「佛」は「空」と同義としてよいとおもいます。
「生死の 中 に 佛=空 あれば生死なし、」
この文章の『中』は どのように読み解いたらよいのでしょうか
「般若心経」の「仏教漢文の読み方」からすれば、
是故空中無色無受想行識=これゆえ 空のなかに色は無く、受想行識も無い
(五蘊が無い)と云うことは、空のなかに 人の「生」は無いことであり、
「生[死] の なか に 佛=空 あれば」 とは言えなくなります。
「中」を生と死の【なか】と解釈すると、
「般若心経」と「修證義」とが相反することになります。
「是故空中=これゆえ 空は 【まんなか】(中(ちゅう))なり」と解釈し、
「生死の中=生死の 【まんなか】(中(ちゅう))に」とよめば、
「生と死のまんなかに 佛=空 あれば 生死なし」となって、
「生と死の間に 空=佛 の介在があること によって、
生と死(の苦悩)が無くなる」
と読み取ることが出来るようになります。
「是故 空中」 これゆえ 空は 中(ちゅう)【まんなか】なり とよみ、
「生死の中(ちゅう)に「空」があると解釈することで、
「般若心経」と「修證義」は相反しなくなります。
「般若心経」は、大乗仏教の根底をなす「空の思想」の心髄を説いている経典であるとされています。
「空の思想」は 龍樹(ナーガールジュナ)によって体系化され、大乗系仏教に
決定的影響を与えたと言われています。
したがって、
龍樹菩薩を知ることが「般若心経」を知ることに繋がります。
龍樹(ナーガールジュナ)の主著
「中論(頌)」はけっして「無」を説いているのではない。その理由の一つとして「中論(頌)」の本文である詩句の中において有と無との二つの極端(二辺)を排斥している、という事実を示しうる。
・・・ナーガールジュナおよび中観派にとっては、中(ちゅう)および中(ちゅう)道(どう)という観念がきわめて重要なものである・・・
「中論(頌)」においては、中(ちゅう)道(どう)とは「非有非無」の意味であるといってさしつかえないであろう。この非有非無の中道は空と同義である。
中村 元 著 「龍樹」 講談社学術文庫1548
「空の思想」を体系化されたといわれる 龍樹菩薩(ナーガールジュナ)
の解説書からは、「空は 非有 非無」であり、
「空中 有色」 空の中には 色有り、 とも
「空中 無色」 空の中には 色無し、 とも言えません。ただ
「是故 空中」 これゆえ 空は 中(ちゅう)なり と言うことは出来ます。
「是故 空中」(これゆえ 空は 中(ちゅう) なり)で句点を付ければ、
「般若心経」と「中論(頌)」は相反することはなくなります。
以上から 龍樹菩薩・・ 「中論(頌)」・・・二世紀
玄奘法師・・・「般若心経」・・・ 七世紀
道元禅師・・・「正法眼蔵」・・・十三世紀 まで、
「空の思想」が相(そう)伝(でん)されてきたことが理解できます。
生死の中に空が在ることは、「般若波羅蜜多」の語源からも、真言(呪)
からも窺(うかが)い知れます。
般若 波羅蜜多パーラミター
パーラミ(彼岸に到れる)+ ター(状態)の智慧 紀野一義*
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 娑婆訶
<往きて往きて 彼岸に往き 彼岸に完全に往きしもの 悟り いやさかなれ>
次のことばも同様とおもわれます。
常に心に念じて、[何ものかを] アートマン(我)なりと執する見解を破り、
世間を空であると観察せよ。そうすれば死を度(わた)るであろう
スッタ・ニパータ1119(ブッダのことば)中村 元*
活(い)きながら黄泉に落(お)つ (道元禅師遺偈) 秋月龍珉*
「空は、仏教における一種の謎で、いほば公開せる秘密であるといふことができる。何人(なんぴと)にもわかってゐるやうで、しかも誰にも本当営にわかってゐないのが空である。けだし、その空をば、いろいろの角度から、いろいろの立場から、いひあらはしてゐるのが、仏教といふをしへである」
高神覚昇 般若心経講義
諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影のやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。
正法眼蔵 現成公案
仏の証(空観)は、仏といえども 明確に証し得ない、
「言葉だけでは説明出来ない」ことが述べられています。
「空中ハ、無色無受想行識」と言うことは、「空は無であること」、すなわち
「空は無と同義」となります。「空の思想」は「無の思想」と区別できません。
しかし「空」は「無」と同じではないことは、確かです。区別するためには、
「空中」からふたたび「無」を取り除かなくてはなりません。
「以 無所得 故 」 得る所なきを以っての故に
空中が無であるのであれば「得る所は無い」。しかし「空」は「無」ではなく、
般若波羅蜜多なのだから、・・・と解釈することも出来ます。
しかしこの解釈をしようとするなら、「是故空中無色無受想行識」の「是」は
「不生不滅、不垢不浄、不増不減」だけでなく、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」との両方を示す代名詞となり、
「空ノ中ニ色・受想行識ハ無ク」ではなく、
「空ノ中ニ色・受想行識ガ無クバ」と条件文にしなければ
「以 無所得 故 」と 繋がりません。
「空」とは、実体のないことであり、「言葉では言い表すことが出来ないもの」
であるから、
「・・・是故空中ハ、無色無受想行識ナリ・・・」とよむ「心経」こそ、
「空」そのものの解説であるのかもしれませんが・・・。
追記) 無断の転載・転写はおことわりします
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