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2005年10月10日 (月)

色即是空のこと

般若心経と鏡

「色即是空」 色すなわちこれ空なり 
 般若心経のなかのもっともよく知られている一節です。
 
 色は儚ハカナい、花のいのちは短くて、とか
 色事はむなしい、この世はまぼろし、とか よくききます。
 
 まじめな本の中にも「色には実体がない」と書かれています。
 ほんとうはどうなのでしょう?

 全文をみてみましょう、

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」、
 色は空と異ならず、空も色と異ならず 色即ち空なり、空すなわち色なり。

 「色」と「空」の関係が述べられています。
 たとえば、「あなた」と「鏡に映ったあなた」との関係に似ています。

 「鏡に映ったあなた」は「あなた」と異ならず
 「あなた」は「鏡に映ったあなた」と異ならず
 「鏡に映ったあなた」は「あなた」即ち「あなた」であり、
 「あなた」はすなわち「鏡に映ったあなた」なのです。
 
 あなたはガラス越しならわたしを見ることができますが、
 鏡の後ろにいるわたしを見ることはできません。鏡に映っているのは
 あなた自身でです。

 もちろん本物の「あなた」と「鏡に映ったあなた」はべつのものです。
「色」と「空」もべつのものなのです。

「色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり」と
 道元禅師は正法眼蔵のなかで述べられています。これは
「あなたは鏡に映っているが、あなたは(鏡の中のあなたではなく)あなた自身である」
 ということです。

「色即是空」の理解にもいろいろ有ろうとおもえますが、

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」の中の一節として
 理解されることが大切とおもいます。

・・・・・・・・・・・・

(h200209追補)

「あきらめる」ということばがある。

【▼諦める】 あきら・める

大辞林 第二版より

(動マ下一)[文]マ下二 あきら・む

望んでいたことの実現が不可能であることを認めて、

望みを捨てる。断念する。思い切る。

との意であるが、

たいかん [諦観]     【仏】    広辞苑 第二版

ていかん ―くわん 0 諦観】 大辞林 第二版より

(名)スル
(1)全体を見通して、事の本質を見きわめること。
「時代を―する」

(2)悟りあきらめること。超然とした態度をとること。

と ここでは「明らめる」意となる。

すなわち「諦める」には明らかになった結果思い切る。といった意が含まれている。

仏典では この結果論的語法がしばしば用いられる。たとえば

「般若心経」において、

「度」は 量ることである。「度量する」ことである。

河が浅ければ、また水量が少ないと計量されればその結果 河を渡ることができる。

よって、「ワタル」とも読む。

彼岸に「ワタル」ことが出来ればその結果 救われることになる。故に、

「スクウ」とも読まれる。

仏教では独特の語法が、諸所にみうけられる。

「不生不滅」は一般に、「生(しょう)ぜず、滅せず」と読まれる。しかし

「生(い)きず、滅せず」と読むことが仏法の習いであると 道元禅師は正法眼蔵で述べられている。

人は死せるのち、もう一度生きることはできぬ。だからして、生が死になるといわないのが、仏法のさだまれる習いであるこのゆえに不生という。死が生にならないとするのも、仏の説法のさだまれる説き方である。このゆえに不滅という

かくの如く口語的に読むことが可能な言葉でも、仏典の意味合いとは異なるということに気がつかなければならない。

「般若心経」を読み解こうとするときも、こうした仏典の特異性を考慮して読むことだ。

「般若心経」を ①読誦すること、②写経すること ③言語として理解することとは、区別されるべきことなのである。

「般若心経」を 読誦することをそのまま言語として理解しようとすると 仏法の習いを忘れた 意味不明の口語訳 となる。

「般若心経」は その「仏教漢文の読み方」に重層している「言語としての文字」を仏法の習いに添いながら 読み解くのである。さすれば

「心経」はまさに もっとも身近な「お経」だ と理解され得るはずである。

********

 「仮名」という融通無碍な発想こそ佛教ではなかろうか???  (h.20.4.28)

心経での「空」は「Emptiness」と英訳されている。しかし空の論理や中論頌の解説書をよむと、どうも「Emptiness」では理解しがたい。「Space」とすべきようにおもわれる。
むろん「空性」は「空間」というコトバだけで説明できるものではないが、
実体論であれ、認識論であれ、あるいは三次元あるいは四次元空間であれ、
「Space」としたほうが「空」を捉えやすくなる。

もともと「ことば」では言い表しがたい「般若波羅蜜多」なるものを、なにとぞして衆生に伝えんとする仮の名が「空」ということばである。
「空」はまた「中」ということばで言い換えられるが、これもまた仮名であり、
「zero、core、center、middle or moderate」 などのことばが、其々の状況で使い分けられよう。

心経において、「空」とは「実体(substance)のないこと」と解説され、
① 色即是空 空即是色:
   色 即ち物質的現象には実体がないのであり、実体のないからこそ、
   物質的現象で(あり得るので)ある 
② 諸法空相:
   すべての存在するものに実体がない
③ 空中無色:
   実体がないという立場においては、物質的現象もない

と現代語訳されている。しかしこの語法が矛盾であることは明白である。
まず①②において 
物質的現象、あるいは存在するものに「実体がない」という「本質=自性=実体」がある
と言う矛盾(空亦不空)。
次いで ①実体のないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある と言いながら、
     ③実体がないという立場においては、物質的現象もない 
    (物質的現象であることは、実体があるということか?)と言う矛盾が生じてくる。

この矛盾を解決するためには、
「空」に 「Space=空間」 という[仮の名」を付けてみる。さすれば
    ① 色即是空 空即是色、② 諸法空相、③ 空中無色 は、
    ① 物質的現象は これ空間にあり、空間はこれ 物質的現象によって認識され、
    ② すべての存在は空間にあり、③存在と存在の中間は無である と、
これで矛盾は解することができる。
しかしこれも仮の名であり「空の本体」ではない。空の本性そのものを理解するためには、より適切な「仮名」が必要である。

中論頌であれ、中観派であれ、「中」がいかに重要な言葉であるか、
「空の思想」or「大乗仏教」に多少の興味さえある者なら、誰でも判ることである。
般若経典あるいは空の思想において、「中or中道」は「空の本体」にせまるコトバ(=idea)
である ことは明らかであり、これこそ「空の仮名」と呼べるものである。
しかし不可思議なことに 「空の思想の真髄を説いている」 とされる「般若心経」にこの
「空の本体」にせまるコトバ(=idea)としての「中」は無く、ただ場所を示す名詞(=noun)
としての「中=(空の)なか」があるだけである。

空の中(なか)とか、真空〈一休禅師〉とかいったことばが、心経以外の般若経典にあるものなのかどうかは知らないが、とにかく、「仏教漢文の読み方」にしたがって、空のなかに、色無く、受想行識無く、・・・。

とよむと、空は無と同義、すなわち無は空の「必要十分条件」となる。しかし

空の理論を体系化したとされる龍樹〈中村 元〉からすれば、無は空の「必要条件」ではあっても、「十分条件」でないことは明らかである。さらに

空の理論上、もっとも重要な「中道」のことばが、この読み方からは出てこない。

空の真髄を説いているとされる般若心経に、空の理論を体系化したとされる龍樹菩薩の「中論のことば」が無いとはいかなることか?

八不の替わりに六不があればよいのだろうか?

中観派とよばれた人たちも、このように般若心経を読んでいたのであろうか?

このことによって「般若心経」は、論理の飛躍した呪文のごとき経典となっている。
「佛教漢文の読み方」は「空の思想の研究成果」を拒否しているのだ。

何故に「般若心経」は「中or中道」を半分だけ隠蔽しているのか?この謎を明解にした
記述を知らないが、紀野一義博士は「般若心経の立体重層てきな読み方」を示唆されている。
佛教は東洋哲学でもあるが、元来はやはり宗教である。
「般若心経それ自体が、コトバでは言い表し難い空の思想を具現しているのだ」 
と理解できないことは無い。しかしあまりにも不自然である。


いま少し解りやすい「般若心経」の現代語訳は出来ないものなのだろうか。


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