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2007年1月23日 (火)

一休和尚と不生不滅

一休和尚さまのうたに
「死にはせぬ どこえも行かぬ ここに居る たづねはするな ものは言わぬぞ」
とある。

「死にはせぬ どこえも行かぬ ここに居る」=「死滅して無になったわけでもないが」、
「たづねはするな ものは言わぬぞ」=「生きているわけでもない」。
生にあらず、死滅(=無)にあらず、不生不滅の「空=仏の居場所」が詠まれていると理解できる。

人は 生と死だけで自身の存在について語ることはできない。生・死を有らしめているもの までを意識せざるを得ない。
この 生・死を有らしめているもの は生でもなく、死でもない(不生不滅)こと は道理である。

 現代語では一般に「不生・不滅」を

「しょうぜず あるいは うまれず・めっせず」 と読み、

生成せず、消滅もしないこと と理解されるが、ここでは

「いきず・めっせず」と読み、

生きているのではないが・死滅し、無に帰したのでもない と解釈している。

この仏教的読解を道元禅師は次のように述べられている。

増谷文雄 全訳注 正法眼蔵 
現成公案の一節
〈原文〉
  たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
  しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。
  生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

〈現代語訳〉
[不生不滅ということ]
  薪は灰となる。だが、灰はもう一度もとに戻って薪とはなれぬ。それなのに、灰はのち、薪はさきと見るべきではなかろう。知るがよい、薪は薪として先があり後がある。前後はあるけれども、その前後は断ち切れている。灰もまた灰としてあり、後があり先がある。だが、かの薪は灰となったのち、もう一度薪とはならない。
  それと同じく、人は死せるのち、もう一度生きることはできぬ。だからして、生が死になるといわないのが、仏法のさだまれる習いであるこのゆえに不生という。死が生にならないとするのも、仏の説法のさだまれる説き方である。このゆえに不滅という。
  生は一時のありようであり、死もまた一時のありようである。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春となるとも思わず、春が夏となるともいわないのである。


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