恁麼 【心経と西洋哲学】
「恁麼物恁麼来(いんもぶついんもらい) 平成20年2月2日追補
仏教が哲学であることは松岡正剛氏も千夜千冊で 述べておられる。
松岡正剛 千夜千冊 道元 「正法眼蔵」
第九百八十八夜【0988】04年6月9日
道元にアランやハイデガーやベルグソンを凌駕する時間哲学があることを知ったのは、ある意味では道元にひそむ現代的な哲学性に入りやすくなったのではあったが、・・・・・。
さて、ここで正法眼蔵の各巻についての簡単な解説があるのだが、そのなかに
十 七「恁麼」。「いんも」と訓む。「そのような、そのように、どのように」というようなまことに不埒で曖昧な言葉だ。これを道元はあえて乱発した。それが凄い。「恁麼なるに、無端に発心するものあり」というように。また「おどろくべからずといふ恁麼あるなり」というふうに。
とのコメントがある。さらに
訳注 増谷文雄 正法眼蔵 「恁麼」の開題には
「恁麼」という言葉は、よく知られているように、禅門の人々が好んで口にし、筆にするところのものである。そのことばは、もと宋代の俗語にいずるところであって、・・・。俗語の意味としては「このような」とか、「このとおり」とか、そのとおり」とかいうことであり、それが形容詞にも、名詞にも、また疑問詞にも用いられているようである。だから、試みに「恁麼物恁麼来」なる句を、和文でも俗語風に訳してみるならば、「こげん物がどげんして来よったのじゃ」といった具合にもなろうというものである。
では、いったい、そんな俗語に託して、禅門の人々がいわんとするところは何であるか。
それは、はなはだ微妙であって、ずばりということは難しい。いま、道元がこの一巻をもって語ろうとしていることも、その微妙なる意味を、なにとぞして説かんとするのである。
とかかれている。この「恁麼」なることばはかなりのくせものである。
一つにいかで「恁麼」なるほどの粗野な言いようをするのかということ。
二つには 多様なそのもちいかたである。
恁麼の「それ・これ」は何を示すのか?
いくつかの恁麼の用例をみてみると「そげんこつ」はどうも
「無上菩提上(むじょうぼだいじょう)」の 諸々の在り様 いわゆる「陀羅尼・真言あるいは諸法」など をさし示していると見取される。なれば
禅門の恁麼人といえども 「そげんこつ」を問著せん! とするとき、
いささかなりとも「間接的な表現」を取らざるを得まい。「陀羅尼・真言あるいは諸法」などなどは あからさまに問著されるものではあるまい。
恁麼とは「縁起なるもの」の代名詞ではないか?
ひとのそこにあるは、父母のまさにそげんとき(正当恁麼時)そげんなこつ(恁麼事)をしたおかげである!
そのようなおもいにいたれば、恁麼の恁麼会なる をなんとか道取なるか。
なんとか 道得なり?
旧タイトル 心経と西洋哲学
放送大学の共通科目 「現代を生きる哲学」 を拝聴した。
「哲学」の講義を受けたのははるか遠い昔である。教養課程の一単位として哲学を選択したものの、その難解な言葉に恐れおののいたことだけ 記憶に残っている。
しかし今回の講義を「般若心経」と読み比べてみると、あまりにも類似していることに驚嘆する。
ヘラクレイトスの言葉といわれる「万物は流転する」は 仏教の根本思想である「無常=恒常であるものは無い」の肯定的表現であり、カントの超越論的または先験的理性とはアーラヤ識・マナ識といった唯識に通ずるものであろう。
「色即是空」とはフッサールにおける「主観・客観を融合した意識流、(色空本より不二なり=空海)」であり 、
「不垢不淨」はライプニッツのモナード論「予定調和」になろう。
「不増不減」はエネルギー保存の法則であり、
マッハにおける時間空間の関数的見解は八不の「不来不去」を思い起こさせる。
「諸法空相」はボームの「顕然秩序・内蔵秩序」そのもののようである。
なんて事だ!「心経」の266文字のうちに、コントの総てが包含されている。
しかしこれはあくまで「是故空中無色・・・・」 を
「これゆえ空のなかは無・・・・」と読む「漢文の読み方」ではなく、
「これゆえ空は中である。無・・・・」と読解した帰結である。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶!
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