老荘思想
「美しい国 日本」を掲げた宰相のおかげで、現代の日本人が多少とも日本人らしさを意識するきっかけをもったかも知れない?
日本的あるいは日本人らしさを表現しようとするとき どんな「言の葉」が出てくるのだろうか?
茶「道」・華「道」・書「道」といった文化的なもの、弓「道」・剣「道」・武士「道」。
剣の極意は「無」念「無」想、禅のこころは「無」などといった言葉は、現代の日本人にも通用する。
いな、むしろ高尚なニュアンスを含み、好まれるほうの言葉になるであろう。
「道」をつけると、お茶、おはな、書あるいは剣術というよりは ナントナク 深み、重みがかんじられてくる。
「無心」とか「無の境地」とかいったことが連想されるようになってくる。
現代日本人は仏教用語の「縁起」とか「空」とかには うさん臭い顔をするのに、中国古代思想の「道」とか「無」には共感するのだ。
もともと「道(タオ)」も「無」も紀元前の中国、老荘の思想である。「無の思想」とも呼ばれ、言葉に信をおかないと云う非論理的な思想なのだ。それなのに理屈や分析で生活している現代人がどうしてそんなに「道」や「無」を好むのか?
アビダルマやプラサンガなど、仏教のほうがよほど論理的だと思われるのだが?
読売新聞2008年1月4日 日本の知力という特集で、「無我の境地」古来の知恵 と題した 養老孟司 氏の記事がある。ここで「無我」は 「無意識」あるいは「無心」といった意味で語られている。
たしかに大辞林をひもとけば「無心」でもよいのだが、
無我 (むが)は仏教用語。我に対する否定を表し、「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
であっても良いはずなのだ。
しょせん 日本人は 屁理屈のインドは嫌いで、「ナントナク」の中国がすきなだけなのかも知れない。
諸兄 どう思われます?
2008/01/22 追補 孔子の「天」、老子の「無」、釈迦の「空」といった論評に出会った。
それぞれ表現は宇宙的イメージであり、現代科学にも通ずる言葉で、ナントナク納得?
しかしそれは次元のことなる言い方であろうとおもわれる。たしかに「無の思想」とか「空の思想」とかいわれるが、
老子は「道(タオ)」を説くために「無・一」というコトバを用いたのであり、
龍樹は「縁起」を説くために「空・中」というコトバを用いたのである。
「道」も「縁起」も「コトバ」ではあらわし難い世界であり、故に「仮名(ケミョウ)」とされるのである。
老子は「道」であり、釈迦は「縁起」でなければ はなし は遭わない。
次元の異なりに注意しなければなるまい。
「無・一」は「非観非想」をもちいて「無為自然」を示そうとする原始的、直感的表現体であり、
「空・中」は「不去不来」をもちいて「無常無我」をあきらめんとする経験的、論理的な表現体である。
「無・一」というコトバには「二・三・・・」という(指向性という)制限が付く。「二・無・一・三・・・」とはならない。それにくらべ、「空・中」というコトバにはこの制限がない。ゆえに
「仮名なるもの」をコトバで現そうとすると、
制限つきの「無・一」というコトバでは論理が飛躍せざるを得ないが、
「空・中」というコトバでは「プラサンガ」という「論法」が可能となるのである。
漸く此処まで来た。
「無の境地」も「空観」も到達できるところではないが、あるとこ位は見当つけたいものだ。
「平等」と「無差別」、「差別」と「不平等」の相異ぐらいつけられたか?
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