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2010年2月 7日 (日)

空の論理‐心経における場の転回と否定の肯定

一般に 般若心経は空の思想の心髄を説いた経である とされているが、他方 心経は呪文である。経の意味内容は不可得であるが、読経し写経することによって霊験あらたかな功徳がある ともいわれている。たしかに心経の現代語訳を読んでみると、文脈は飛躍し 論理は無視されている。
「五蘊一切皆空・色即是空・空即是色」を説く一方、十二縁起も四諦八正道も「無所得」とされていて、仏あって、仏なしを説いているかのようでもある。
悟りとは 言葉では表現できないもの、直感によってのみ到達できる境地だ といわれるのであれば 是もまた致し方ないのかもしれない。

「空」にもいろいろある。
『大品般若経』では「空」を「諸法は幻の如く、焔(陽炎)の如く、水中の月の如く、虚空の如く、響の如く、揵闥婆城[1]の如く、夢の如く、影の如く、鏡中の像の如く、化(変化)の如し」と十喩を列挙して説明している。 さらに空を分類して、内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢竟空・無始空・散空・性空・自相空・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空の十八空(経典によっては二十空)を挙げ詳説している。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
「心経」はいかなる「空」を説いているのだろうか?

空の思想については多くの解説書があるが、そのほとんどは龍樹菩薩の中論頌を中心に述べられている。空の思想は龍樹菩薩により体系化されたといわれ、「無自性空」とも呼ばれる。龍樹菩薩には空思想にかかわる著書が遺されている ということは 書は「ことば」であり、空とはいえなにほどかは「ことば」で説かれることの証である。

「空と無我  定方 晟  講談社現代新書」 
「龍樹  中村 元  講談社学術文庫」  
「空の思想史  立川武蔵  講談社学術文庫」 

などからは 「空の論理」 とよばれるほどに、空の思想は理論的である。決して呪文の如きものではない。

中論頌の空について

中論頌のはじめに帰敬序がある。
これは「中論」全体の要旨である(龍樹  中村 元  講談社学術文庫)

何ものも消滅することもなく(不滅)
何ものもあらたに生ずることもなく(不生)
何ものも終末あることなく(不断)
何ものも常恒であることなく(不常)
何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)
何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく(不異義)
何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)
何ものも[われらから]去ることもない(不出)
戯論(形而上学的議論)の消滅という
めでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、
もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。

中論における空の論理は 
釈尊の説かれた「縁起の理法」と「初転法輪における中道」の正当性を主張することである といわれる。

「縁起」とはなにか?

此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す  – 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)

縁起は、「此があれば彼があり、」「此がなければ彼がない。」という二つの定理によって、簡潔に述べられうる。このような有と無と二つの文句が並べられるのは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、この二つは論理的に結び付けられており、「此があれば彼がある」ということの証明が、「此がなければ彼がない。」ということなのである。具体的な例としては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。このように後者の「此がなければ彼がない。」は、前者の「此があれば彼がある」ことを証明し、補完する、必要不可欠なものである。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

左があって右があり、右がなければ左もない。縁って生起している(縁起である)。
左だけ成り立つこともなく、右だけで成り立つこともない。それだけで存在する「左」という実体はなく、「右」という実体もない。「実体がない=空である」。
「左右」は「実体がない=空である」ことに依って「縁起」している。
縁起なるものは「実体がない」という条件(枠)が付帯することになる。
― 窓が窓であるとき 同時に窓枠もあること ということ ―
縁起であるものは空であり、空でなければ縁起はない。
空・縁起は縁起であるともいえる。

半紙に縦に線を引く、すると左右が分別できる。横に線を引く、と上下が分別される。
線は「左右」を あるいは「上下」を分別している。 線は 左と右に上と下とに縁(ヘリ)を為して「左右」を、「上下」を分別している。左ということばの縁(ヘリ=枠)ができて 
右ということばができる。上という縁(ヘリ)が無ければ 下ということも言えない。
この縁(ヘリ)=分別線に依って「左右」、「上下」という縁起が成り立つ。
すなわち縁(ヘリ)=分別線が空と同義なのである。
空は梵語で零を意味することばである。零は正負のどちらにも偏しない分別線=縁(ヘリ)である。
日の丸の 内は赤で、外は白である。その境界(縁)は赤?白?
赤の極端が内の縁(ヘリ)をなし、白の極端が外の縁をなす。しかし
境界(縁)そのものは「不赤不白」であり、内・外は「この縁=分別線」により縁起する。

空は縁起なるものに 縁(ヘリ)=分別線 を為し、縁起をして縁起なさしめるもの と承知される。
空はそのコトバではない。縁をして左・右・内・外にコトバの意味を付与するのである。

「空」は「不左不右」であり、「不上不下」である。「不高不低、不東不西」であり 分別の両端に偏しない、すなわち中道であること が自明となるのである。

中論は八不  ―不生不滅、不一不異、不来不去、不常不断― を説く。
この「空」は如何なることを物語るのであろうか?

不一不異とは
現象はコトバで表され、コトバで現象が示される。言葉は言葉自身がその言葉の枠(縁)を形成するのであり、その枠に依って言葉がその言葉になる。言葉と言葉の枠(縁)は
不一不異 として成り立つのである。
赤色や青色で書かれていても 「右」は「右」で 「色」 とはならない。
「右」というコトバの枠から離れなれない。

不来不去とは
「運動の否定」ともとれるが、見方を変えれば 運動するものを可となすもの、去・来ではないが、去・来を成り立たせるもの、すなわち 空間 を示す ともいえる。
不常不断とは
止めることできない流れ=時間 ともいえる。
不生不滅
   生滅するものに いのち がある。いのちの生滅こそ大事である。
   生きていることは此岸のこと、死(滅)したあとは彼岸のことである。
   此岸なくして彼岸はなく、彼岸をかたるとき此岸があり、「此彼」の縁起が成る。
空は「此彼の縁起」に縁(ヘリ)をなし、「此彼」を分別する。空とは此の世と彼の世とを分別しているもの と理解され得る。故に
人は死んで直ちに彼岸に到達することは出来なくなる。此岸と彼岸とを分けている「空」を通り抜けなければならない。
空の場に立つ人はその必要は無い。直接彼岸をみることが出来る。
此岸の人は 彼岸について無明である。直接彼岸をみることが出来ない故に。

常に心に念じて、[何ものかを] アートマン(我)なりと執する見解を破り、
世間を空であると観察せよ。そうすれば死を度(わた)る であろう
                               スッタ・ニパータ1119(ブッダのことば)中村 元
   ここで空は「悟りの境地」へと止揚する。

不生不滅は 「仏法のさだまれる習いであり、説法のさだまれる説き方」 となる                     ― 正法眼蔵  現成公案 ―

以上が中論頌における空の論理の骨格であると考察する。

この考察を検算するため、
空の思想の心髄を説くといわれている般若心経がどのように読解できるかを試みる。

般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
舎利子。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識 亦復如是。
舎利子。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。
以無所得故、
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。
般若心経。

短い経典のなかで、五蘊皆空と称えたすぐ後に、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識 亦復如是と同じ内容と考えられる頌偈がつづく。さらにこのなかに色と空が入れ替わった成句が二回くり返されている。
この反復は単なる強調だけなのだろうか?仏典の言葉の使い方は何処かに秘密が隠されていることが多い。

中論」からすれば「空は中」である。心経も「是故空中」で句読点をうってよいはずなのだが、「空中無色・・・・」と読ませている。
「五蘊皆空」と説きながら、なんの前触れも無く 「空中無色・・・・」と「空」から「空中」へと「場」が転回するのだ。
この「場」の転回によって、「論理の飛躍」が投機される。
如何にしてこの「場」の転回が起こったのであろう?

色不異空、空不異色、色即是空、空即是色
現代語訳
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れていない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

ここでは色と空とが縁起のように捉えられているが、それだけでよいのだろうか?
もし色と空とが縁起であれば、色も実体がないし、空も実体がないということになる。
それはそれで成り立つのではあるが、色と縁起なするものが他にあれば、たとえば
(此岸)の無い世界(彼岸)を想定すれば、此彼は縁起であり、此(色)に実体はなく、彼にも実体はない。
(此岸)は日の丸の赤い部分(内)であり、の無い世界(彼岸)は日の丸の白地(外)に相当する。
前述のごとく、空は内外という縁起の枠(辺縁)と同義であるとすれば、
不異不異即是即是は 色側からみたときの空と色との関係として捉えられる。
日の丸の赤いところ[色]の辺縁[空]は赤の極端であり、辺縁[空]の内側も赤いの[色]であり、赤[色]が無ければ辺縁[空]もなく、辺縁[空]が無ければ赤い円[色]もない。
なり、なりである。  ― 正法眼蔵  現成公案

他方 外側からの辺縁も辺縁であり、空の論理から辺縁は不赤不白という空になる。
ゆえに 空そのものに赤色は無い。空中に色が無くなる。
是故空中、無色、無受・想・行・識、・・・・となる。

しかし 是故空の中に色は無く、受・想・行・識も無く、・・・・と読むと
無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界までは般若経典はアビダルマの教義を否定するものということで理解できるが、
無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。までは まさに縁起と四諦の否定であり、釈尊の教えまでもが否定されている。
仏教そのものを否定しているかにみえるが、次いで以無所得故・・・と説かれる。「以無所得故」に依って漸くこの否定が肯定される予感がうまれる。否定は次なる展開である。
新記録とはそれまでの記録が否定されたことであり、「新」とは「旧」の否定を包摂する。
「否定」とは次なる展開を包摂する開放系であり、否定を繰り返すことが 無限の可能性を引き出すことになる。空は悟りの境地であり、不(否定)によって説かれている。
否定が肯定される ということが空の論理であるとの保証は無い がひとつの解釈にはなり得よう。

以上 心経における 「反復される成句」と「場の転回」についての解読し、「空の論理の骨格」の検算をこころみた。

空・縁起は縁起であり、空もまた空であると解釈する以外ない。
「無色」とは現象の無いこと、現象界の外のことである とするなら、
「空中」は形而上の世界」を語るものであると推量される。
空の論理からすれば、「空」は「不有色不無色」である。
「空」は形而下ともいえず形而上ともいえないが、「空中」は形而上といってよい。
「空の思想」は形而下から形而上にもおよぶゆえに その解釈は多様性を内在せざるをえない。それは空の思想を説く中観派のなかにも 帰謬論証派と自立論証派とがあることによっても知られることである。

衆生を救わんとする空の思想が衆生には理解できない。理解できないものを受け入れようとするには 自己否定しかない。自己否定が自己の無限の可能性を引き出す と云うのなら、これもまた分別知である。
衆生である門外漢には無分別智に到ることはできない。釈尊の教えも、空の論理も分別知に依って理解するしかなく、「心経」もまた分別知に依って読解する以外に無い。
分別知によって読み解く「心経」はきわめて平明である。
分別知に依っても、
釈尊の「無我・縁起・四諦八正道」、龍樹菩薩の「八不中道」から、「正法眼蔵-現成公案」まで 無罣礙である。

空とは コトバ(=分別)には実体がないという認識であり、それゆえに中道という実践が不可避となる。仏教は信仰でもあるが、同時に哲学であることを確認する。

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